望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

「連作」という形式 ――消えるべき句の残り方

はじめに

 「俳句」に連作はありえない。

 と、いきなり断言してみる。ただしその「連作」が経時的因果によるのであれば。

連句」と「連歌」の違い

 俳諧で行う連歌連句連歌を庶民化したものが連句。と、ざっくりと定義する。詳しくはこちらをぜひ。

japanknowledge.com

renku-kyokai.net

kasumi-tkmt.hatenablog.com

散文と詩の違い

 俳句や短歌は「詩形」である。形式としての詩があり、形式としての散文がある。ワイングラスにワインが、ブランデーグラスにブランデーが注いであるように区別がつけば簡単だが、それぞれのグラスにワインやブランデーや、もしくは水が注がれていた場合、形式だけでは判別はつかない。やはり香りや味によって区別するしかないのではないかとも思う。

 散文詩、という形式もあり、自由律という形式もある。そして形式がないことを形式とする小説という形式もまた存在するのだから。小説は形式をもたないがゆえに、あらゆる形式を換骨奪胎し、その形式を解体する。だから、俳句形式の小説というものは存在するべきであり、短歌形式の小説ももちろんなくてはならない。そのような俳句や短歌の連作を試みるのなら、それは小説であって、短歌ではありうるかもしれないが、少なくとも俳句ではないという予感がする。

okwave.jp

 詩は「因果」を嫌うと考える。因果では相対的宇宙から出ることができず、せいぜい加算無限=無限分割の堂々巡りに陥るばかりだからだ。世の中の散文の大半がこの「堂々巡り」のバリエーションである。(詩形式でありながら堂々巡りに陥ったものは、当然、詩とは呼ばない)
 その意味で、「俳句」は小さな器に唯物を取り合わせるという、形式としても内容としても「因果」を離れるに適した詩形である。

 だが、ここでややこしいのは「写生文」だ。内容は俳句に近い。だが、散文による写生であるため、「間=ジャンプの契機」に乏しくなるきらいがあり、時事の推移を経時因果的に記しがちとなることは否めない。

因果と感情

 因果を廃して唯物的記述を行うことが堂々巡りを脱する方法であるばあい、「感情」はどのように作用するだろう。そもそも、主観を交えず、などという態度は、作者がいる以上は不可能なのだ。

 

mochizuki.hatenablog.jp

  つまり主観を排すとは、先入観に囚われない姿勢、と考えればよい。エポケーである。このことから、主観とは経験的因果の蓄積を判例主義的に適用する態度、と仮定できる。従来の見方を捨て、つねに虚心坦懐に目前の事物にあたること。しかもカメラのようにではなく、すべての感覚を駆使して、状況を往還すること。となれば、「花鳥諷詠」となる。

 

mochizuki.hatenablog.jp

 

往還する詩

 問題は、状況に塗れる態度とは、徹底的な不介入な態度でもあるという点にある。そこから持ち還ってきた詩は、言語、文字という因果的形式を用いた上でなお、なるべくそれらに支配されないように心がけつつ、記述されなければならない。ここで、「先入観」が働けば、詩は失われ、ドグラマグラとなるだろう。(しかし、夢野久作さんの『ドグラマグラ』は詩(的)ではないかとも思われるのだが、それはまた別のお話で)

 詩を詩のまま記述する試みとして、シュール・レアリズムがあった。フロイト自由連想法は、現実体験によって培われた「常識のタガ=因果の先入観」を逸脱する方法のひとつであった。そして、それを徹底的な形式下にうのが、「連歌」「連句」だったと思う。

 因果に縛られた現世から、一炊の夢へ逃避する戯れごとであったとしても、散文地獄にあえぐよりはよほど建設的であった。ロマン主義。リアリズム。社会派。それは、闘争への契機を内在させ、政治運動に直結する。それは必要な運動だと思う。だが、そこに詩はない。というか、詩は必要がない。

 つまり、文学には二つある。詩と詩ではないもの。

閑話休題

 脱線した。政治とか文学とかに手を出すには、いささか準備不足すぎる。

俳句連作は可能か

 唐突に、連作とは「変化」もしくは「大同小異」を記述すること。と置いてみる。連作というからには、作中に「つながり」がなければならないからだ。そして、俳句とは、先入観に依拠した「つながり」を極端に嫌う形式であった。

 「短歌」であれば、連作は可能だと思う。なぜなら、短歌とはもともと、思いを託し、互いに送りあうものでもあったからだ。短歌を連ねて「思い」を伝えようとするのは自然なことであり、ここに「短歌」は「物語」と同じ成分を含むことがわかる。それは、ストーリーを構成しうる、ということである。

 「俳句」はストーリーを排除し、不即不離こそを是とする。それがもし連作として理解できるのであれば、個々作は俳句だが全体としては俳句ではない、と暫定する。

 多くの句集が、編年体であり、句集のタイトルは全体のテーマを示さない。ただ、作者のそれまでの変遷の記録として、象徴的にタイトルとしているに過ぎない。俳句とはあくまでも刹那にうがたれる点としてあり、それがいかなる図を描くかを予め予期しない。俳句は意味を消し、足跡を消し、時間を消し、響きを消し、ただ薫習する。以前に少しふれた「平和(ピンフ)俳句」の態度がこれである。

 

mochizuki.hatenablog.jp

囲碁連作

短歌を「将棋」、俳句を「囲碁」にたとえるのもおもしろい。

 

mochizuki.hatenablog.jp

石をポンと置く。そこには従来には関連のないと思われていた、因果を結ばないと思われていた事物の結節点、節となって周囲よりすこし硬く(高く、不安定に)なる。連作としてさらに石を置くが、そのときすでに、前においた石は霧散しており、石を置いたときの残響と、その場のわづかにワダカマリが残っていて、波紋のようなものを広げているが、やがてそれも消失する。だがそれがおかれていた香りのようなものは、確かに碁盤上に残っている。

 囲むでも、ツケるでも、トるでもなく、ポンと打ち、消えていく俳句。音の後で残りがだけがふっと香る俳句。それでいて、このような一人囲碁の連作が、碁盤を離れて何か、けっしてその場に表しえないものを顕わしているとき、しかもそれが、「記憶」にではなく、その場に永続して顕現するとき、俳句連作が成った、と思う。

おわりに

 という、連作俳句の可能性を、理想的に記しておきたかった。ただそれだけである。