望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

コトは切断出来ないということ ―阿部完市と熊谷守一と島田修二

はじめに

 前回も引いた以下のサイト。

weekly-haiku.blogspot.com

ここに、とても興味深い「俳論」が引用されている。今回のブログはこの論について思ったことを記していく。

1.新しい回路基板の実装

俳句を作る、一句を成就するということは、言葉、言語の組み合わせだけとは、思っていない。俳句とはそれがそのまま一個の行為 ── 作り出す、作り上げるという行為、と思っている。一句を作ると言うことは、今までになかった、今までの自己にとって全く未経験のものを内蔵する一行為、と思っている。それは私にとって動いて止まぬ、次に在るようになる言葉、言語を作り出すこと ── 既成の言葉、言語の組み合わせでなくて ── と考えている。すなわち、私は、時枝誠記の謂った「言語過程論」を真似て、一句成就することを「俳句過程説」とでも唱えたいほどに思っている。全ての私の行為 ── 私にとっての精神の一新動体であると考えたい。
(『阿部完市俳句集成』(1984沖積舎)「あとがき」)

いつかとりあげた(だろうか?)『〈うた〉起源考』藤井貞和青土社)を読んだ折も、もしかしたら『エコラリアス』『どもる体』を取り上げたときも、おおよそ「日本言語」を問題にする際に必ず登場する、時枝誠記さん。マテリアルとしての言語、感情表出としての言語、そして知識を構成する言語。まず、なにより俳句とは俳句を作る者にとって、言葉の新たな結びつきの具現であり、それは新たな世界の「縁」の発見と等価なのであり、そのような「縁」の基盤を実装した脳は、ダイナミックに変化することとなる。言語とはまずシステムであり、しかも頑健な因果に縛られた不自由な部分においてのみ文化的な「意味」を認められる、排他的で保守的な静的であろうとするシステムだ。

 俳句、短歌、仏教、つまり「詩」は、この静的であろうとするシステムを揺さぶるものとしてあらねばならない。脳がひしゃげ、既視世界が歪む体験こそが詩だ。

2. 熊谷守一さんのことば

一句は、実は全く「言い了える」ことはない。一句は、わが思いの方向、わが思念の志向をのみ提示する。方向のみ、志向のみであるから、わが思いは終わらず、わが思いはより多方向に、つよく広がり止むことがない。鑑賞者は、一句によって ── 作者が決断したその意志による十七音という「短」さそれゆえの示す志向、方向の保証の下により想わされ、直感させられる。


一句言い了えている、と思わせる「完結感」は、俳句には絶対に在らねばならぬものであっても、真実「終り」「言い了える」ということは、俳句という切断、決断の詩に於いては絶対にあってはならぬ。 「完結感」が在らしめられ、そして絶対に「完結」して在ってはならぬのが一句・俳句である。(『絶対本質の俳句論』(1997邑書林)「時間論」)

終わるが終わらない。無論だ。世界はコトである。コトの切断面がモノである。だが、切断されたモノを連続させたものがコトになるのではない。ここに時間発生してしまう。アニメは世界に似ているが、世界はアニメではない。なぜなら、コトは「一」だからである。それは無始無終だから、完結などしない。だから、完結し、閉鎖したものは詩ではない。 形式的には完結している。だがそれは動き続けている。
 芭蕉の「言ひおほせて何かある」は、このことを指している。

わたしはこの引用を読んで即座に熊谷守一さんの、この言葉を想起した。

景色がありましょう。景色の中に生きもの、例えば牛でも何でも描いてあるとするのです。それが絵では何時でもそこにいるでしょう。実際のものは、自然はそこにいないでしょう。その事の描けている絵と描けていない絵とあると思います。

(『別冊太陽 熊谷守一』 平凡社 p.39 ※『心』(平凡社)1955.6より抜粋)

コトを捉えることが肝要なのだ。そのような詩は、それを経験した者をダイナミックに変化させるだろう。

 

3.島田修二さんのことば 

「風を見る」と書き、次になにを書くか、今、目の前にゆれ動いているものよりも確かなもの、私にとってより私の心のものとしての確定的なもの、を探す。探すために書く、言葉として、私の在り方の隙間から洩れ出てくる言葉を書く、いろいろ書く。風、吹く、見える、風立つ、きれいに吹く、淋しく吹く、林が動く、信州、野分、風が曲る、道を吹く。見る。ふらりと立って見入る。手に持って見る、ぶら下げてみる。風を見る、ぶらさげてみる。「風を見る、ぶらさげて見る」、このとき、ひとつの質感、なにかの影が私に見える。イメージがちらりと形を見せ、残りたい、在りたいと言う。私は、その言葉を信用する。つづいて書く、ぶらさげる、紐、人間の絆、悪心、嘔気など、ぶらさげる、きれいにぶらさげる。もの、命名されることのないなにかが手にある。なにか、風のなにからしい。信号だ、風への知らせだ。風からの知らせだ。風の合図だ、私の合図だ、きれいな合図だ。そして、私が、ここに在るようだ。在ることができる。ふしぎに在る。きれいな、合図をぶらさげて、風を見ている。それが、いま、私が在るということだ。風の中に在る、私、だ。

風を見るきれいな合図ぶらさげて  阿部完市

(『俳句幻景』(1975永田書房)「わが《イメージ》論」)

 1.で取り上げた「俳句過程説」の敷延だ。この一句がどのような言葉(イメージ)の変遷を経たのかを丁寧に追っている。はじめに一つの「言葉」があり、そこからの観念連想によって得られる次の言葉のなかで、「何らかの触覚」を感じたものを並べていく作業ととれる。

 昨今、短歌においては単語をバラバラにして袋から抜き出したまま並べるといった方法で、既存の因果を超えようという手法が多くみられる。それほど極端でないとしても、上の句と下の句をバラバラにつくってくっつけることで、新奇な感覚を起こさせる秀歌も多い。俳句においても二物衝撃は確立しているし、絵画でも音楽でも、「作者の意図」を離れることを目的とする方法は枚挙にいとまがない。

 それらの全てがよいものであるとは思わないが、既存を偶然で乗り越えようとする方法は有効だ。そしてみな確率論へ進んで廃れていくというのもあらかじめ見越したうえで、AIによる詩の生成は、むしろ物語の生成よりも優秀なのである。それはひとえに、「因果」に寄らない「縁」を、人間は「触覚」として知覚できるということによる。ナンセンス。荒唐無稽。出鱈目。カオス。だが、そうしたモノの中に「コト」を察知したとき、それは詩と認められ、それをアリだとした自身も変革されるのである。

島田修二さんが勧める技法は、この察知能力にかかっていると思う。

何かを言おうとするのではなく、何かを伝えようとするのでもない。とにかく、五つの詩を書くのだ、と思うことです。
 何となく説明的になっている場合が多いようです。調べを整えて三十一音の詩、五連を綴ってみることです。そしてひとりよがりにならないで、とに角、意味を通す工夫をしてみてください。心がけるだけでかなり質が高まってくるはずです。(『今日からはじめる短歌入門 池田はるみ編・著 家の光協会 より)

おわりに

 時間のある世界において静止とは死を意味する。だがそれは、そのような世界の捉え方をするからであるにすぎないとわたしは思う。

 モノは切断された断面の連なりに現れ、モノはモノしか認識できない。だが、それはただ一つの「コト」あればこそなのである。

 ここの触れるために、詩は試みられなければならない。