望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

変化と空想 ―永遠の見る夢

はじめに

「空想技師集団」という話を、もう長いことかいていて終わらない。今回はその続きを書くための試論だ。

忘却を越えて

登場人物も、その関係性も、当初の役割と構想も、場面の推移も、伏線も、現在の情勢も、死者と生者の区別も、時系列も、解決済か否かも、犯人も、何もかも忘れてしまった状態の、もう十分に長く書き進めた小説の続きを書くことは可能なのか。
 というよりも、それは小説の神様にたいする冒涜になる恐れはないのか。という切迫感に苛まれ、冒頭から読み返す試みに幾度か取り組み、そのたびに挫折する。

小説がつまらないからではない。続きを書くための情報を整理しなければ、という別の焦燥感に駆られてしまって、読書が苦痛な作業になってしまうからだ。だが、その苦痛こそが作者が負うべき印ではないのか。
このような観念が悪い作者象を憑依させてきたことに、気づいた。

作者は神か

作中、作者は神に近い存在であることは否定しない。かつてこの小説においても、そのような立場において作者は登場人物を翻弄してきたし、また翻弄されてきたことは事実だ。
 だが、作者が神である世界は、存在しえない世界内世界という観念においてのみ可能なのであり、そのような世界内世界をいかに翻弄したところで、世界内世界の前提たる世界内世界外世界は揺るぎもせず、世界内世界外世界の超越神の影すら映し出すことはできていないのだという認識からしか、続きを書き始めることはできないのではなかったか?
いうまでもなく世界内世界とは身体内脳とパラレルである。この対応に閉じられている限り、予定調和の二分法を抜けることはできず、結局、空想もまた、コップの中の戦争というだけの自閉に他ならないことになる。

皮膚感

空想は外部に向かわなければ嘘だが、外部の存在を肌で感じ取ることができない大多数の人間にとっては、外部が単なる「願望」へと容易にすり替わってしまう。
「願望」とは、いまある制約がなければ実現するはずの救いのことでしかなく、その制約が多様であるがゆえに解消の手順が困難であるか、またはこの世界の物理において不可能であるかという程度の問題にすぎず、結局は世界内世界のあがきに帰結するのである。
はっきり言っておくが、空想とは世界内世界こそを打ち抜くものであって、世界内世界外世界からもたらされた唯一の窓になのである。

窓のあるモナド

モナドが窓をもつならば予定調和は不要だ。しかしこのことは窓付ノマドに自由意志を認めるという意味ではない。自由もまた世界内世界において発明された方便にすぎないのだから。神は目的を持たない。とスピノザは記した。だが、世界内世界という全体の文節において発生した空間に付随する性格であるところの時間の創発によって、もたらされた存在(物質)は、明確な目的をもっている。それは「永遠」だ。この目的が矛盾した、いかに儚いものかは、存在の構成要素を確認すれば明らかである。存在とは永続しないことなのだから。このことを指して、「永遠は物質の夢」と記すのは誤りだ。「永遠の捕虜が見た夢」こそが物質なのであり、物質に備わった永遠の属性の一つが「変化」でありもう一つが「空想」なのである。

おわりに

空想的唯物主義者を辞任する作者としては、この「変化」と「空想」の関係をいかに処理するべきかがテーマになる。そしてそのツールはやはり「薫り」ということになるのかもしれない。