望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

響き合う引力 ――写真俳句と未整理のロードマップ

はじめに

先だってのプレバト(2023年1月26日放送分)の俳句で夏井先生が「写真俳句の評価基準」をおっしゃっていて、ひじょうに納得がいった。夏井先生の評価基準はブレが少なく、ひじょうに理論的で、的確な添削と相まってひじょうに説得力がある。

重要だったのは「写真から離れ過ぎない」「写真を挿絵にしない」の2点だった。さらに写真と句との相乗効果によって「広がり」が生まれればなお良いと。

そのなかで、今回注目したのは「通常の句なら『つきすぎ』だが、写真俳句ではOK」という点だった。

写真俳句としての句

 夏井先生が俳句の基本としているのは「情景描写」という視覚的情報の明確化だと思う。その点を「写真俳句」はほとんど「写真」で説明できてしまう。

 そこで俳句が担うべきは「視覚誘導」だ。

 写真俳句は、写真と俳句が補い合って双方を「広げる」ものである。だから、写真と離れた句では意味がない。通常回の「お題写真」とは違うのである。余談だが、わたしはプレバト俳句で「発想を飛ばして」というナレーションのフレーズが大嫌いだ。が、それはまた別のお話で。

と、ここまでが前段。

万有引力

 万有引力は文字通り「万有」であり、それは言葉間の謬着の比喩ともとれるとわたしは考えている。言葉間の謬着とは、長年慣例化されてきた用法、経験による連想傾向、音による想起、意味的連関などによる。言葉は単独ではほとんど用をなさない。言葉は意味を付され、他と異なる意味を付されることによってのみ、存在価値をもつ。

 そもそも言語とは二重に恣意的な重なりの限定によって音と意味をくっつけただけの差異体系だから、常に全体性を保持し続けている。あたかも、インドラの網のように、一個の言葉は隣接する他の言葉のみならず、そのはるか遠方に位置する言葉にも影響を及ぼしており、それは常に揺らいでいる。

音≒水

 言葉は付された意味から常に逃れたいという性情をもつ「音」の集合体だ。なぜ意味から離れたいのかといえば、それは意味が無意味だからである。「音」はもっと軽やかで広がりをもち、区切りを受け付けない全体性そのもので比喩的には「水」に近いと、わたしは考える。

デコデ(復号化)

 俳句の要は十七音という切り詰められた形式で、句ではなく音である点がなによりも重要だ。意味は十七音による振動が勝手に読み手に与えればいいのだ。

 しかし、人間はそうした意味ならぬ意味を受け取る準備ができていない。音楽のコードによるものならば、慣れている。(が、その音楽のコードもベタやつきすぎが存在する、ということはまた別のお話)だが、言葉を音楽のように捉える術を俳句は持たない。和歌には「披講」があり、お経には「声明」がある、また「詩」の朗読会には、音楽的感性が触発されることも多いようだ。(知らない国にのアルファベットを繰り返しただけで、観衆の涙をさそったポエトリーリーディングの記事を、わたしはアイザック・アシモフの雑学本で読んだ記憶があるし、バカリズムさんのネタの「送るほどでもない言葉」がもたらす情感には、意味よりも歌が感情に訴える意味を持つことを示していた)

ベタ・つきすぎ

 俳句がつきすぎ、やベタを嫌うのは、そのようなものを俳句にする必要がないためである。俳句は言葉を省略することで意味を跳躍すべき形式だからだ。その意味で「季語」はある意味、オモリであり足枷となる。せっかく省略した意味を、濃縮したコードが季語だからだ。しかしそのような抑えがないと、われわれは俳句を掴むことができなくなり、十七音は、宇宙のかなたへ飛び去ってしまう恐れがあるのだ。(川柳はそのような意味の跳躍を認めないと思う。川柳において重要なのはイロニーの方だとわたしは考えているが、現代川柳においては、むしろシュールに走る傾向があり、それは現代俳句にいても、現代短歌においてもそうである。ダダ再び!)

ゲーデルの首

 言葉の意味は、つねに他の言葉と結び付けられることによって揺らいでいる。普段は、その揺らぎを最小限に抑えるように使用されるが、詩においては逆に、揺らぎが大きくなる位置関係において、言葉を用いる。なぜならば、詩は言葉から意味を剥がすためにあるからだ。よく見られる用法は、意味間に矛盾を起こさせるもので、ゲーデル不確定性原理などが思い起こされるわけだが、これは理に勝ちすぎて詩には向かない。

創発

 わたしは常に、「創発」を目指したいと思う。水素にも酸素にも水の要素はないのに、H2Oが水になるという事実は、詩である。

海王星の発見

 本来は不安定な「言葉」の「音」と「意味」の揺らぎとは、言葉間に存在するまだ見ぬ質料の影響なのかもしれない。海王星天王星の軌道の不規則性から計算によって導き出されたように、万有引力がもたらすその揺らぎは、音と意味との間にある暗黒物質にわれわれを誘ってくれるかもしれない。

 ここで忘れてはならないことに、海王星は、計算によって確定されるずっと以前から観測されていたという事実がある。愚鈍な観察は凡庸な思考より速い。だがその「感覚的」な発見は「感性」とか「勘」にとどまってしまう。詩人はそれでもいいのだが、明確にできるところまでは、明確にしておきたいとも思う。

六根・六境・六色

 言葉の万有引力は脳を震わせ、それは「意味」を想起させる。「意味」とは言語化された響きなのではないかと考えている。

 眼=視覚、耳=聴覚、鼻=嗅覚、舌=味覚 身=触覚と、意=意識 は、仏教の六根・六境・六色で併置されるように、対等なものである。その中の「意」はとりあえず「脳」と考えてよいので、「脳=意」といいかえてもいいだろう。(「意」を「脳」の機能のみとするのはあくまでも暫定的である。他の五つも結局は「脳」によってその「境」が知覚され「色」が認識されるのであるから、ここで「脳」に特有な働きとして「意識」があげられるとき、それは他の五つつのインプットなくしては働かないことに留意すべきである)

 眼が見る、耳が聴くのはある意味機械的な働きによるが、脳は思考するは事情が違うと私達は考えがちだ。だが、思考もまた、ひとつの知覚であり感覚なのだと考えるべきだとわたしは思っており、それは他の五つの感覚のなかでは、「耳=音」が一番近いように思われるのである。

文字以前

 かつて文字をもたなかった人類は、長い間、もっぱら聞くことによってコミュニケートしてきたはずだ。なので、意思は視覚的代替記号をもたないまま培われてきたはずだ。聴覚器官によって鍛えられた「意」を、われわれはとりあえず復活させたいのである。

再び写真俳句

 俳句は視覚偏重だが、視覚よりもよりフォーカスした細部やフレーム外に焦点をあてることができる。それは、意味の揺らぎに貢献する、というより「視覚」の固定化を解除する働きをもっている。その意味で、写真俳句は温いともいえるが、それでも、既成の枠組みを外す体験をもたらすことはできる。

快楽主義

 そこに快美なる音響を感じ、性急に「意味」に閉じ込めることなく法悦に入ること。こと、詩においては、快楽主義こそがふさわしい。そして全ては響きあう音楽なのだ。引力ですら存在を奏でる一つの現象にすぎず、その揺らぎにはかならず他のなにものかが影響を与え、まだとらえられていないブラックマターの質料を予感しながら、注意深く、楕円軌道を周回し、新たな惑星の重力圏にむけて加速していく姿勢で、創作に励みたい。

おわりに

今回はとりとめもない雑感となったが、詩を考える上でのタームはちりばめられていると思う。未整理のロードマップということで、記録しておく。