はじめに
叙景短歌 とはわたしの勝手な命名で、風景のみで成立している短歌を指しており、嶋稟太郎の『羽と風鈴』に接して以来、ずっと考えているスタイルである。
しばらくは地上を走る電車から桜並木のある街を見た 嶋稟太郎『羽と風鈴』
風景のみとはいえ、その風景のどこを短歌にするのかや、例えば経過や変化をあらわす副詞や助詞(「やっと」とか「しばらく」とか「も」とか)に、「想い」は出てきてしまう。
「出てきてしまう」とわたしが書くのは、そのような主観をも消していきたい、という意思の表明だ。
また、陳腐なドラマ性、ありきたりな道具立て、安易に愛や死を着地することでインパクトを持たせようとする怠惰さは、徹底的に避けなければならない。
そう考えていくと、短歌は俳句に近づいていく。ここでいう俳句とは、高野素十の作風である。
石段の上に赤しや冬の宮
枯枝のひつかかりゐる枯木かな
高野素十『素十全句集 冬・新年』
最近は歌集を読み直して、叙景短歌とよべるものを探している。
今回は『レテ/移動祝祭日』小俵鱚太 から叙景短歌または、叙景短歌に近い歌を拾い簡単なメモを残しておく。
あくまでもわたしの考えている「叙景短歌」というまだ定義の明確でない短歌として読むのならば、という前提で、わたしが叙景短歌に近づくための覚書をしているだけのものであり、いわゆる「鑑賞」や「評」とは別物である。素人が歌人の作品に対して、立場をわきまえず「よい」だの「悪い」だの「改変案」などを書くことになるが、どうかご寛恕いただきたい。
『レテ/移動祝祭日』小俵鱚太
「肉野菜炒め、良いよね」「良いよね」って 左にずっと川のきらきら
ぎりぎり叙景。会話体を直接記載する場合、その会話は作者(わたしはなるべく「作中主体」という言葉を使わないようにしている)が参加しているのか、それとも景色として聞こえてきている(または積極的に聞いている)のかを明確にしたい。さらに、その会話が「記憶」なのかどうかもブレないようにしたい。
下の句の「ずっと」は一往復の会話と時間経過が合わないが、「ずっと」を現在形で用いる感覚もあることから、会話の間ずっと川面がきらめいていたのだと読み取ることができる。しかし会話の最中にふと、その川面の反射を感じづつていたことに気づいたのか、思い返したとき、ずっと川がきらきらしていたと思ったのかは、曖昧だ。
例えば、「左に川がきらきらしてる」ならフラットな観察だ。短歌としては「きらきら」で締めるほうが情感的だが、叙景短歌の場合はむしろ、この情感は消したい。
たましいのつぼみに見えたギャルの持つお椀が爪に囲まれていて
叙景短歌における「比喩」の扱いはtoron*の短歌を取り上げた際に検討した。
「ギャル」の「爪」 に着目しそれを「つぼみ」と喩える秀逸さ。これにより用意にその情景が思い浮かぶ。問題は「たましいのつぼみ」である点だが、お椀には熱い汁ものが入っていて白い湯気がたっており、それを冷ましているときの姿は「祈り」のように見えることから「たましい」は至極的確な選択だと思う。だが、叙景としては「つぼみ」のみで十分だと思う。それを「たましい」と書くことは作者の「想い」を書きすぎだと思うからである。
「明朗」の朗ですという人と会い割り勘にした夏のいちにち
先ほども検討したが、情景記憶の再構成を「叙景短歌」とするか否かを考える。この初会合はおそらく盛り上がらなかったのだろう。短歌の主眼は自己紹介よりも「割り勘にした」という点だ。たとえばそれぞれでオーダーし、自分の分をそれぞれ支払った場合は「割り勘」とは言わない。居酒屋などで一品をシェアしたり、別々の飲み物を注文したりした後で合計額を半々にした場合「割り勘」というのだ。だから、二人は出会い系か、もしくは営業かは不明だが二人で飲んだのである。そんな「夏のいちにち」だったなぁ。という軽い詠嘆で短歌は閉じる。これによって、叙景ではなく抒情に確定した。
たぶん斜視なんだとおもう友の子に手を引かれつつ浜へおりゆく
この短歌は上の句を問題とする。推量の比重が高いものを叙景短歌と呼ぶか否か。はっきりとした景色として表すのならば、斜視のある、斜視気味の、のような表し方でよいと思うが、あえて、「斜視か」と友人に直接たずねることははばかれる、という関係性を含めて「おもう」に主眼を置きたい場合、そのような意図で叙景短歌を作ることは可能だろうか。現時点において、わたしは、「おもい」は抒情であって叙事ではない、という見解をとる。
ピーマンをくり抜いてからおもむろにコップになるな、とおもい してみる
この短歌にも「おもい」がある。だがこちらは「叙景」と呼ぶことに抵抗が少ない。前の短歌の「たぶん斜視なんだとおもう」とこの「コップになるな、とおもい」はほとんど違いはない。唯一違うのは前者が「たぶん」であったのに比べてこちらは「確信」があったという点だろうか。さらに重要なのは 「してみる」である。テーブルには実際に飲み物を湛えたピーマンが置かれている。これは叙景である。
ほおずきの生る庭で聴くその家を引っ越す前のしずかなすべて
結句「しずかなすべて」の抽象性を採るかどうか。と考え始めてさらに「聴く」によりおおきな比重があることに気づく。引越しの準備を終えてあとは出発するだけの一軒家の、縁側にぼんやりとすわってほおずきの生えている庭をぽかんと眺めている情景が見えてくるのだが、「しずかなすべて」を「聴く」という「詩的」な表現よりも、もっと具体的な事物を記したいと思う。叙景短歌に「緩い詩的な」措辞はいらないと考える。
負けてから優しくなった先輩とストレッチをする十月の朝
上の句も下の句も事実を述べているのだが、関係性が経時的であるため叙景とよぶのはすこし難しいのかと思う。こうした形式の歌は多く、もちろん、短歌としては全く問題はない。繰り返すが、あくまでも「叙景短歌」とする場合にどうか、という判断である。「負けてから優しくなった先輩」は、先輩の性格の説明として機能しているため、叙景のおもむきが減じる。また事実としても「負けてから優しくなった」と書くのは、あえてではあろうが、月並みだ。そういう先輩となら、どんなストレッチ風景となるのかに興味がある。
色っぽい、と不謹慎にもおもったな一本腕のサラリーマンを見て
この歌も「おもったな」だ。〇〇と思った+叙景 は短歌の王道だ。「おもった」の部分に比喩がくれば正統派である。さきほどあった「斜視」という場合の「たぶん―なんだとおもう」に似たエクスキューズをこの歌の「不謹慎にも」に感じる。「おもった」事実は短歌にしたいが、そのおもいが差別的ととられるかもしれないので、あらかじめそう思われるかもしれまえせんが、と断りを入れるのである。一本腕のサラリーマンがいる、どのような景色が色っぽいと思ったのかが書けなかった点で、叙景短歌から遠ざかる。
叙景短歌も、短歌にしたいという発端には「おもい」がある。だが短歌にする際に、その「おもい」が発動した要素を風景に求め、どのような「おもい」だったかを消し去ることをいとわず、というか積極的に「おもい」を消していき、そのなかでどうしても消せない副詞、助詞、接続詞にのみが残る場合も、それを残してよいかどうかを吟味するのである。
石段の長さにあえぐ団体がカナダの人だとリュックでわかる
叙景短歌だ。「おもう」のではなく「わかる」のだ。わかったからどうだというのか、という疑問は当然あるだろう。だが、これは景色であり事実である。しいて言うならば「長さにあえぐ」は、本当にそうだったのか。そう見えただけではないのか。見えただけなら、「見えた」と、実際にそう言っていたのを聞いたのであれば、言っていた、または言っていたのを聞いたと書くべきだろう。
これも叙景+おもい だが。着地は「河合塾に通っていたこと」という過去の事実なので、叙景に近い。ただ、上の句の「金木犀を嗅ぐすずしさ」の措辞の詩的な語順選択が気にかかる。「金木犀香ってふいにおもいだす」などでもよい気がする。金木犀が香る季節がすずしいと書くのは重複だ。
海に向く青いベンチに陽は射して森永ミルクの文字剥げてゆく
よい叙景短歌だと思う。細かなところでは、結句「剥げてゆく」と書くのは推量でゆるく詩的な表現になる。「が剥げてる」などにしたい。
「ちょっとだけ持っててくれる?」と渡されたカバンが重くてまた好きになる
この短歌は、抒情短歌だと思うが、ここに挙げた理由は結句だ。叙景短歌では、結句に「見ている」「見てる」「聞いた」などの現在形の動作を示す動詞が来る場合が多いのだが、この歌のように「好きになる」をそれらと同列としてよいだろうか。基本的には、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる の五感と、言った・歩いた・走った・座った・などの動作ならば問題はなく、笑った・泣いた・怒鳴ったなどの情動の表現となる動作は難しい。となると「好きになる」は後者に含まれそうだ。「カバンが重い 両手で提げる」「カバンが重い 胸に抱える」などの動作で、「好きになる」という心情が伝わればよい、と考える。
握力を測る機械に見えたけどトイ・プードルに繋がっていた
叙景に比喩の形式だが、この歌は比喩が強すぎると思う。「握力を測る機械」といわれれれば確かにその通りなのだが、「けど」でつないでいるところや、「繋がっていた」と締めるところで、すこし「笑い」に寄りすぎているというか、「ね、おもしろいでしょ?」という押し出しが強い感じがして、叙景短歌にある「静謐さ」を損ねていると思う。送り手が一人で面白がり過ぎて、受け手が冷める感じがある。
まだ帰りたくない犬が道に伏せやがていっしょにしゃがむ飼い主
叙景短歌だと思う。経時的な変化がもたらす抒情(!)を叙景短歌に落とし込むのは難しいと思うが、あくまでも事実に即して書いていくことで、この歌は叙景短歌として成功していると思う。ただ、初句の「まだ帰りたくない犬」は緩いかもしれない。
ギュスターヴ・カイエボットの絵の中でずっとカンナをかける青年
絵画に描かれたものを「風景」とみなすか。二次創作的な趣がある歌。その絵画の中のどこに着目したかで短歌を成立させるのは力業だと思うが、この短歌には詩情が感じられる。だが、絵画の内部のみで完結している点はやはり弱い。絵画を見ている自分の客観的場所が消えてしまう。また動かない絵画なので「ずっとカンナをかける」はズルい書き方だと思うのだ。ここに「ずっと」と入れればなんとなく詩的になるが、熊谷守一が言っていた以下の言葉を忘れないようにしたい。
「景色がありましょう。景色の中に生きもの、例えば牛でも何でも描いてあるとするのです。それが絵では何時でもそこにいるでしょう。実際のものは、自然はそこにいないでしょう。その事の描けている絵と描けていない絵とあると思います。」(太陽p.39)
この感覚は、叙景短歌には必要だと考える。
白バイの待ち伏せている交差点あるいて渡るのが恥ずかしい
上の句の叙景性はとてもいいし、このような場面に遭遇したら迷わず短歌にしたいと思う。そして下の句の感情もとても分かる。だが、叙景短歌とは、この下の句の感情を、「恥ずかしい」とは書かないよう推敲する作業だと思う。「ずっと早歩きで渡り切る」など、感情語は使わない。
二リットルペットボトルを直飲みでいくときひとり暮らしと思う
この歌集には、俵万智風だな、と思う短歌がいくつかあって、ひじょうに短歌的におさまりがいい。どの歌集にも、俵万智風短歌は散見する。叙景を抒情の原因とするタイプの短歌が多いような気がしており、景色のみの短歌はあまりない気がするが、後日探してみたいと思う。この短歌も「思う」に着地する抒情短歌である。「ニリットルペットボトルを直飲みし再び冷蔵庫へと戻す」などとすれば叙景に近づくか。
コーヒーとわずかなチョコレートで済ませ出でゆく冬の音の少なさ
叙景かな、と思って拾ったが、ちょっと様子が違う。検討すべきは結句「音の少なさ」だろうか。しかし「静かな街へ」ではつまらない。「音の少なさ」は「静けさ」と等価ではない。たとえば雪が積もれば静かになるが、まだ雪は降っていないと思う。だが、冬は音が少ない、という感覚は分かる。結局、この感覚は「音の少なさ」と書くしかないのかもしれない。また食欲がないところから、極度の緊張から音が耳に入ってこないという状況なのかもしれない。このように判断が難しい短歌があるのだということを知って、興奮している。
商談をコメダですれば豆菓子は食べずに互いにかばんへ入れて
事実のみを記した叙景短歌とよんでもよさそうな短歌だ。しかし、定型に収めるためにこの語順に落ち着いたという感じで韻律が引っかかる。必要最小限の情報のみなので、これ以上やりようがない気がする。
コブシ咲く商店街に宵の青マクドナルドが余計あかるい
「商店街に宵の青」が短歌になろうとしすぎている気がした。叙景短歌ならば「商店街の夕暮れに」くらいでよい気がする。
二年前に買ったギターを弾いてない 掃除機かけるとき持ち上げる
情景は叙景短歌向きだと感じたが、上の句の「おもい」が強すぎた。「弾いてない」がなければ叙景短歌だ。省いた分、なにを加えるかが校正のしどころだ。
市川のおじさんからの梨という梨にあふれた晩夏、かつて
こういった日常の風景は叙景短歌にしたいと思う。この短歌では、技巧に凝りすぎな感じがする。エモさが強調され抒情に比重を置いていると思う。
一度だけみたへその緒の桐箱はいまも呼吸を続けていそう
何度か取り上げたが、推量・類推は「おもい」か「行動」か。ただこの短歌は叙景ではなく、作者の繊細さアピールとして機能している気がする。「呼吸を続けていそう」っておもっちゃうわたし、繊細じゃないですか? という感じ。「へその緒の桐箱は」であって「桐箱のへその緒は」でない点は、叙景短歌を探す、という観点からはスルーする。
〈16〉か〈91〉かもわからない夜に散らばる整理券たち
叙景短歌的道具立てであり、切り取り方であり、描写も的確だが、「かも」の「も」は検討が必要かと思う。「〈16〉か(91か)わからない」でよかった気がするし、「夜に散らばる」は、散らばっていた場所より「夜」だということを示さなければならなかったかを検討しなければならない。最後の「たち」は擬人化とみなすかどうかも検証が必要だ。
立ち読みのさなか視界の端にあるまひるの横断歩道、まぶしい
こういう日常の切り取りは叙景短歌の王道だが、この場合は、短歌的道具立てすぎる気がした。結句「まぶしい」がとくにありがちな感じ。「視界の端」「まひる」「横断歩道」も、短歌ではおなじみの要素だ。日常の切り取りなのでおなじみ要素が繰り返されることは避けられないが、使い方まで類型ではやはり弱くなると思う。
短歌になる、という感覚器を改変しなければ叙景短歌を作るのは難しいのだと感じている。
頼りない買い物メモに立ち止まる駅前広場の鳥がうるさい
日常切り取り。結句の「鳥がうるさい」をもっと具体的にしたい。不安か苛立ちか分からない情動の理由を探して変えたいところだし、駅前広場が安易な気がするので、これも考えたい。
熱海の夜に窓を開ければ嬌声と意外と荒い波音がする
叙景で成立しているのだが「窓を開ければ」が短歌的作為にとれるので、「窓の外から」が無難かなと思う。または、窓を開けた理由が分かればそれを書きたい。
カミソリが古びた家の鉢植の上で錆びててなんだかこわい
とてもそそられる情景だ。「なんだかこわい」ではなく、「錆びてる」を結句として考え直したい。
めずらしく親のマツダでやってきた友の機嫌がよくわからない
写実的だが叙景ではない 「友の機嫌がよくわからない」と思ったエピソードを書きたい。
押し花のように潰れた蚊を挟んだ古本ひとつ、これは売らない
潰れた蚊が挟まった古本があるのだ。そして作者はこの本は売らないと思っているのだ。「売らない」という感情を、行動で示したい。また「押し花のように」という比喩は、もしかしたら大切な人の血液が広がって花のように見えているという意味で、この陳腐ととられるかもしれない比喩を入れたのだろうか。その場合は、血と書けば叙景短歌として作れるかもしれないと思う。
虹色のBOSSをいつでも提げながら喫茶所にくる春の後輩
叙景短歌は、体言止めになりがちだが、体言止めにしてしまうと、それまでの記述がすべてその「説明文」になってしまう恐れがあるので気を付けなければならない。あくまでも叙景が主とならなければ叙景短歌にならない。「おもい」はその叙景から受けてが再体験してもらえればそれでよいと考える。この短歌の情景は、この短歌の中のみで完結してしまい、受けてが再体験する余地が少ない。
地下なのにスロープがある何もかも思い通りになんてならない
「地下」にある「スロープ」に違和を感じる感覚は宝だと思う。だから、この違和感で唯物的に押し切りたいと思う。
半券で出入り自由な博物館へひとり戻ればさらに涼しい
上の句の事実はとても使い勝手がよさそうだと感じた。下の句を抒情とせず、博物館での過ごし方などを叙景で描きたい。
おわりに
重ねて書いておくが、小俵鱚太を添削しているという意識は全くない。ここに挙げたのは、『レテ/移動祝祭日』に好きな短歌として付箋をつけた句の中のほんの一部である。もとより、『叙景短歌』として作られた短歌などあるはずもなく、したがって、わたしの勝手な定義に則って、こうすれば叙景短歌になるかも、という覚書を記したにすぎない。
叙景短歌は、果たして、おもしろいのか? という疑問は常にある。あるある、でもなく、タダゴトでもなく、トリビア、でもなく、ドラマを排し、分かりやすい詩情を嫌い、短歌的であることを否定しつ、「おもい」の器であることから退いてなお、叙景短歌は詩でありうるか。それがテーマである。