望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

まつすぐな道でさみしい のか ―共感の言語化について

はじめに

 大晦日。昨年に続いてtwitter上で #大晦日108首チャレンジに参加した。

今回は徹底的に「今」の気持ちや状況をそのまま出してみた。短歌の態を成していないいないものをTL上に次々と放流し、煩悩を祓う、悩みを祓う、短歌に対する凝り固まったMyルールを廃棄する。そんな想いだった。

詩の在処

「詩」というものにこだわり始めてから、自分の作っているものから「詩」は失われ、とうとう「短歌」ですらなくなってしまった。

「詩」は取り合わせと規定し、「短歌」は創作と定めた結果、どんどん貧しくなっていった。無論、「詩」「短歌」にそのように取り組み、豊かな作品を生み出している方々は大勢いらっしゃる。わたしでは、その方法では詩を見出すことができなかったのだった。

そこで、石川啄木さんに戻って、その時のありのままの情景、感情を、定形の調べにのせて表すことを意識しようと思った。その過程で、「偶然短歌」のような短歌に可能性を見出したのだった。

偶然短歌

鉄琴に降る雨が偶然にジムノペティーを奏でるような、そんな奇跡を記録する。(cf.EV cafe)

wikipedeiaなどから五・七・五・七・七で成立する短歌のような散文。その中には確かに短歌のような詩情を醸し出すものがある。

所属する原画家の絵がブランドの顔になるのがアダルトゲーム
 
偶然短歌bot @g57577
発電所建設時には天然の滝である加賀津の滝や石
#tanka ウィキペディア日本語版「南原ダム」より
映画館・演芸場が進出し、道頓堀と肩を並べる
#tanka ウィキペディア日本語版「千日前」より
真似をしてねずみを脅し、両方の葛篭を持って帰ろうとした
#tanka ウィキペディア日本語版「おむすびころりん」より
 
人物があなたが出した質問に答えることは期待出来ない
#tanka ウィキペディア日本語版「情報化時代」より

詩は顕れている

ひねりもなにもなく、因果や辻褄合わせなどにもとらわれず、認識の一つ手前の知覚のレベルを言語化する。短歌や俳句の形式上に詩を創作しようとする意図で、二物を取り合わせるなどという邪心を捨て、そのままを書き留めていく多作の中に、偶然に捉えられた奇跡としての詩。そんな希望がある。

詩は見いだされる

また、そのような偶然を待つのではなく、どこからどうみても「平凡」な情景に「詩」を見出す場合がある。だがそれはなぜ「詩」となりえたのだろう。今回のブログのテーマはこれである。

まつすぐな道でさみしい に詩情を感じるのは何故か。

まつすぐな道でさみしい

まずは、オフィシャルな解説をご紹介する。

haiku-textbook.com

鑑賞と共感

わたしは、上記のような鑑賞と解説は「学び」において有用だと考える。しかし理解の別の部分では、ほとんどの鑑賞や解説は、詩を言語コードに還元した、「つまらない」ものだと感じてしまう。(「批評」は違う。がそれはまた別のお話)

まつすぐな道でさみしい

この句の中の、まつすぐ や 道 に比喩の要素など不要だし、過去や未来も余計である。

まつすぐな道でさみしい

という句に触れ、まつすぐな道でさみしい に共感するとき、その共感はこの句に触れた人の経験の全てに繋がっていて、その全体性を言語化することは不可能だと思う。ただし、ここで不可能だと断言することは、言語芸術の不完全さや、限界を示すこととは全く別のことだ。そもそも、言語そのものが不完全なメディアなのだ。

言語は感受のインデクスである。言語は何一つ語れないし、何一つ動かすことはできない。ただ言語はメディアとして伝播し、それに触れた人々を触発する触媒なのだ。

まつすぐな道でさみしい と書き記す

ところで、詩を求めて止まない人が まつすぐな道でさみしい を詩として書き記すことができるだろうかと考える。普通の状態であれば、詩作として まつすぐな道でさみしい を創り出せるとは到底思えない。なぜならばそれは、あまりに平凡な景色に対する、あまりに独断的な感情だから。

まつすぐな道でさみしい

うん。それで? もしくは うん。それが? または うん。だから?

そう問われても、この呟きの後で、もうなにもいうことは残っていないし、その状況はもう現存しない。だいたい、この呟きは、聞き手など求めていないのだ。短歌や俳句を作ろうとして、さまざまな取り合わせを企んでいる心では、まつすぐな道 で さみしい は絶対に出てこないし、そこに詩があることに気付かないだろう。ということはつまり、この情景そのものには詩情は無かったのである。

種田山頭火さんが、まつすぐな道でさみしい と書き記し、その句に大勢が触れたとき、まつすぐな道でさみしい の詩情が見いだされたのだ。詩を作ろうとして書きとめた、いわば計算による句作ではないだろう。山頭火さんや、放哉さんの自由律俳句の心境は、こうした作為の対局にあり、作為なき顕現と説明とは相容れない性質をもつと思う。

共感の言語化

「気持ちはわかる」

という言葉は慰めになるが、実際、どれほど分かってくれているのかを問い詰めれば、とたんに面倒くさい人と思われるだろう。

一般論としては理解できるし、それと似た状況を経験したことがあって、そのときの自分の感情や状態についてならばよくわかるが、今の相手の状況と、自分がかつて経験した状況とは、異なっている点も多いし、なによりもまず、相手と自分とは違う人間なので、「わかる」と言ったって「わかる」はずはないのだが、それでも「わかる」という共感の示し方は「やさしさ」の現れなのだから、ありがたく同情してもらおう。

まつすな道でさみしい がなんとなくわかる。身に迫る。納得できる。そういう人が多かったから、この句は山頭火さんの代表句に含まれる。だが、その共感はひとそれぞれに異なっている。この句の「詩」はどこにあるのか? それはこのフレーズが、「宇宙」「時間」「人間」を包括しているところに宿ると思う。詩は必ず全体的であり、過不足のないものだからである。

取りあわせの句

この句は、山頭火さんのその時のありのままを記した「取り合わせの句」だ。

「まつすぐな道」という簡素化された情景と「さみしい」というプリミティブな感情の。わたしは「とりあわせ」を作為して、詩情を失ったのだった。だが、因果や辻褄に囚われない限りにおいて見いだされる物と物(感情もまた物である。とこれはまた別のお話で)を、ただ並べる方式に詩が顕れる、との認識は、捨て去ることはないのだということを確認したところで、ブログをとじる。