望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

「乳房切除す母よ芒の先に絮」が嫌な理由

はじめに

 10月5日。普段は見ないようにしているプレバトの金秋戦2023予選を、たまたま見ていた。お題は「母の背中」。
 夏井いつきさんの添削は本当にすごいと思う。

母の背は硬し吾を待つ秋夜の背 中田喜子さんの句(添削後)

この「背」のリフレインなんて背筋が寒くなるくらいだ。

そして1位だったのが春風亭昇吉さんのこの句だった。

乳房切除す母よ芒の先に絮

わたしは、すごい句だと思うと同時に「嫌だな」と感じ、それからどこが嫌なのだろうかと考えた。

今回のブログはその理由(暫定)を記す。

すごい句だと思った理由

これは放送でも指摘されていたことの繰り返しになるのだが、

乳房切除す/母よ/芒の先に絮 という上7・2.9で上の句字余り+三段切れを成功させている点。このような捻った形式でなければならない語順によって、この句はまぎれもない「母の背」の句となった。

そして、下の句「芒の先に絮」の的確さ。

「母よ」の詠嘆の効き方。

などであろう。

この句は「俳句」にとって非常に有用な句だと思う。それは間違いない。

感嘆符が嫌い

わたしはこの句を「俳句」ではなくて「現代詩」のようだと感じた。

例えば

乳房切除す

母よ!

芒の先に絮

と記したような感じ方をしたのだ。

このような効果によって、この句には「母の背」が写し出される。つまりは非常な成功点であり、同じ理由でわたしは嫌いなのだ。

ところで、上記のように書いてみると、思い出されるのは、高柳重信さんの、

船焼き捨てし

船長は

泳ぐかな

である。

この句も切れ字の「かな」が俳句としての切れ字とは違う働きをしているように感じられるのだが、まさに「母よ」の「よ」が切れ字というだけでなく、呼びかけの「よ!」に感じられるところが似ているといえば似ていると思う。

繰り返しになるが、わたしは感嘆符が付くような俳句が好きではない。

因みに、

寺山修司さんの俳句、

金魚腹を見せ飛行機雲遠し

の語順を試みに少し変えてみる。
→ 腹見せし金魚よ飛行機雲遠し

さらに三行書きにすると、

腹みせし

金魚よ!

飛行機雲遠し!

こうすると、感嘆符が一つ多いがだいたい似た構造の句であることがわかる。

母乳房切除す芒の先に絮

では1位は取れない。やはり「母よ」がこの句の肝なのだと感じる。そしてこの「よ」がわたしが嫌いな理由の一つなのだと思う。

寺山修司さんの句の原形には感嘆符が入る余地はない。つまり、今回取り上げている句は、感嘆符挿入的詠嘆調を選んだということであり、それが成功を収めたのだが、その同じ理由でわたしは嫌いということなのである。

ところで、

このような感じに似たものを感じるのは、石川啄木さんの短歌だ。

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず

あはれかの
眼鏡の縁をさびしげに光らせてゐる

女教師よ

そういえば、石川さんの『悲しき玩具』には感嘆符が多数出現する。

起きてみて、
また直ぐ寝たくなる時の
 力なき眼に愛でしチユリツプ!

 

旅を思ふ夫の心!
叱り、泣く、妻子の心!
朝の食卓!

またこれらについては別のお話で

限定された感情へ誘導する句が嫌い

「芒の先に絮」の斡旋は秀逸だ。

しかしこの秀逸さが何を目的としているかを考えると、その限定的な効用に、わたしは不自由さを感じてしまう。決して「つきすぎ」の取り合わせではないのにも関わらず、この句がもたらす感情はとても狭いと感じる。

わたしは「さりげない」俳句が好きなのだ。

あめんぼう遠くのあめんぼう揺らす 加藤かな文

蜜柑みてもみてむかずに置きにけり 小沢昭一

風鈴の鳴りさうな風来て鳴らず 片山由美子

このような「平和(ピンフ)俳句(筆者命名)」を好む者にとって、今回の句はあまりに主張が強く、しかもその主張が陳腐に感じられる。「芒の先に絮」を見つけた知性は非凡だ。だが「誘導したい感情ありき」でこれを探し出した、という感じが強い。

繰り返しになるが、そのように見つけ出せる眼力は凄い。その凄い知性と眼力のゆえに、この句は1位を取り、それと同じ理由でわたしは嫌いなのだと思う。

おわりに

いささか乱暴だと自分でも思うが、嫌いなものは嫌いで仕方がない。上記理由に付け加えると、この句はなんとなく冷たい感じがする。俳句は客観視を重要とするが、対象物を突き放すという客観ではなく先入観という意味での主観を捨てて対象との合一、主客合一を仮構する態度であると考える。

今回取り上げた句は、夏井いつきさんのおっしゃるように「事物」「事実」のみで構成されているのだが、その構成自体に「我」が染みついている感じがしてしまう。

おそらくこれが「勝つための俳句」であり「勝てる俳句」なのだろう。

わたしは「勝ための俳句」が嫌いだ。

 

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