望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

俳人 北大路翼さん

はじめに

先ごろ、こんな記事を書いた

ずっと、北大路翼さんの句集を写していた。『天使の涎』『時の瘡蓋』『見えない傷』
北大路翼さんの俳句が好きで、あえて言うならば「清濁併せ飲む」感じが、松尾芭蕉を継ぐという矜持を感じさせてくれる。全身小説家ならぬ、全身俳人とでもいおうか。

加護亜衣に疼く股間や明日試験

春霖や君のおしつこなら飲める

簡単に口説ける共同募金の子

現代俳句のアンソロジーや、ツイッターでこういう俳句を目にして、ファンになった。

打ち首のやうな人参スープカレー

当たり屋の袖につきたる春の泥

ポン引きの傘差す低さ春時雨

などの比喩、写生眼の繊細さがあってこそ、奇を衒うかにみえる俳句もたしかな骨をもっている。そして、季語の的確な周旋と、あくまでも定形に忠実な点や、押韻に対する感覚も、素晴らしい。

肛門につながってゐる野焼かな

仮設便所でできる体位や祭り混む

ビキニ着て股間の盛り上がりが猛虎

それでいて、というと語弊を生むが、すべからくナイーブな感覚がそこにはある。

目の汗を汗かいている手で拭ふ

灯を消せば彼方より来る滝の音

ふくらはぎ少し濡らして白躑躅

透明になるまで吐くや鉄線花

ずっと、俳句を作っていきたい。そう思わせてくれる俳句たちだ。

天の川銀河発電所』Ⅰおもしろい に始まる

twitterが先だったか、『天の川銀河発電所』が先だったか定かではない。

sayusha.comこちらの本の「収録作家分布図」によれば、北大路翼さんは「軽い・ホット」の頂点だ。この本は「おもしろい」とか「かっこいい」、「かわいい」などのカテゴリー別のアンソロジーになっていて、とても読みやすい。けれど、人は複雑なものなので、一概に「おもしろい」で括られて、おとなしくそこに収まっていられるはずもないが、北大路翼さんは「おもしろい」に分類されている。

他には、福田若之さん「トンネルの壁に数式冬が来る」、生駒大祐さん「六月に生まれて鈴をよく拾ふ」、阪西敦子さん「菓子折の片側重き西日かな」、鴇田智哉さん「ゆふぐれの畳に白い鯉のぼり」高山れおなさん「名月や飛び蹴りの影次々過ぐ」、小津夜景さん「日々といふかーさびあんか風の羽化」、相沢文子さん「冬支度ときどき思ひ出し笑ひ」、宮本佳世乃さん「天井の高くてうちだけがおでん」、小川春休さん「サイダーのストローを噛むのはおよし」、西山ゆりこさん「逃げ水に踏み台を置く献血車」、小川楓子さん「泣きがほのあたまの重さ天の川」、野口る理さん「跳びあがることなくスケート終えてお茶」、中山奈々さん「開店すミニ葉牡丹を足で寄せ」、村越敦さん「音消して怖いシーンやちやんちやんこ」、黒岩徳将さん「もろこしを動く歩道で頂きぬ」、宮﨑莉々香さん「一本の柳に画家の目をつかふ」が、Ⅰおもしろい に収録されている。(掲出句はわたしの好みです)

わたしの現代俳句

わたしの中の現代俳句の夜明は、星野いのりさんの「口淫は嘔吐に終はる麦茶かな」であり、短歌であれば「ライトバース」と呼ばれるものと合わせて好ましい作風だと思っていた。しかし、俳句は案外頑なに、文語、歴史的仮名遣いを踏襲する向きが多いように思う。その点は短歌の保守性であり、かつ、保守革新こそがもっともアバンギャルドであるような分野なのではないかとも思われる。とはいえ、「起立礼着席青葉風過ぎた 」神野紗希さんの新鮮さも好ましく、どちらも私の中では「現代俳句」と位置付けている。

 

mochizuki.hatenablog.jp

 

確かな写生眼

近代だろうが現代だろうが、わたしが好きなものは「写生句」であり北大路翼さんの例えばこんな句たちが大好きである。

マフラーを地面につけて猫に餌

木刀で入れるスイッチ扇風機

快便やまだ念仏がをはらない

太刀魚の折れて図鑑に納まりぬ

ゆるキャラが笑ふ稲刈り機の近く

 

『新撰21」

いずれにせよ、この本で火がついて次に手に取ったのが『新撰21』だった

youshorinshop.com

本書では、松本てふこさんの「作家小論 カリカチュアの怪人 」で北大路翼さんの解説を担当していた。わたしはあまり作家論に興味がないので、内容は覚えていない。

入学児花壇の石を裏返す

花屑の中をルアーを引いて来る

合宿の始まる冷やしトマトかな

雲の峰落馬の騎手の立ち上がる

 ドラマチックな瞬間を象徴するとき、移ろいは速度を限りなく0に近づけ、音もまた限りなく遅くそれは無音に似ているが、確実に音圧のようなものに息苦しさを覚える。そうした瞬間を構成する最小限の事物と季語との関係性が、そうしたスカンと突き抜けた緊迫感を催させるのだと感じる、句群に、北大路翼さんの真骨頂をみる、わたしである。

病院に臓器の届く夕立中

台風の真ん中にあるハンバーグ

空中に新郎新婦皿に牡蠣

手に受けし精子あたたか冬の夜

そして、それぞれの女性へのあてがき句も楽しかった。

まいたん☆

陰茎が触れて蛙が触れない

 

加藤楸邨の百句

そんな北大路翼さん著の『加藤楸邨の百句』はこちら

furansudo.ocnk.net

人間の業と向き合ふ と題された文章はほとんど北大路翼さん自身のことではなかろうかと思われる分析が付されている。俳句を俳人によって理解しようという姿勢をわたしは持たないので、その意味では加藤楸邨さんの句は理解しがたいものが多いのかもしれない。以下、同書掲載の加藤楸邨さんの句より

外套に銭あり握りては話す

春愁やくらりと海月くつがへる

鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

木の葉ふりやまずいそぐな いそぐなよ

喉ふかく羽抜鶏鳴くただ一度

月さして獣のごとく靴ならぶ

尾へ抜けて寒鯉の身をはしる力

負け独楽のつきささりたる深雪かな

のんのんと馬が魔羅振る霧の中

霧にひらいてもののはじめの穴ひとつ

 

と、「具象で描く抽象」に近づいてく感がある。とはいえ、マジックリアリズムの手法でもない。精神とか魂とか言えば終わってしまう「存在に迫る」迫力を感じる句だと思う。

屍句会

以前はtwitterで告知もあり、よくこの句会のまとめを見ていた。和気あいあいとした雰囲気の中にあって、あまりに的確な添削にハッと目を開かされることも多い、とても好きな記事であった。

note.com

あちこちで不良生き生き秋祭り(繰り返す言葉が入った句)

流氷に乗っかってみる無鉄砲(「てつ」)

鉄柵を乗り越え受験替え玉す(同上)

引っ越せとリズム正しく夏布団(おどしている句)

泣きながら煽る新酒やミ・アモーレ(ソープランドにありそうな名前の入った句)

爽やかに原点回帰氷川きよし(スローガンの句)

雑煮煮る叔母の手首のパワーストーン(縁起物)

春闘江角マキコのハイヒール(170cmくらいのもの)

カタカナで会議の進む遅日かな(東京のイメージ)

 

そして句集を読んで

『天使の涎』(2012年~2014年) およそ400句を拾いました

youshorinshop.com

挙げていけばキリがないので、Ⅰ 2012年 から特徴的な句を挙げる。

※(  )内は、わたしの覚書です

土下座する頭のやうな藪椿(やうな)

三月の昼間は閉じてゐる花屋(ゐる)

蛤を灰皿にして立ち飲み屋(写生眼)

春の暮内出血のやうな空(やうな)

おつぱいを寄せる雪だるまの手つき(写生比喩眼)

春セーター餃子のやうに寝る処女(やうに)

打ち首のやうな人参スープカレー(やうな)

当たり屋の袖につきたる春の泥(写生眼)

ポン引きの傘差す低さ春時雨(写生眼)

肛門につながつてゐる野焼かな(ゐる)

人間の転がってゐる春の土手(ゐる)

できるだけ角度をつけて春の尿(写生眼)

夏蜜柑のやうな暴走族あがり(やうな)

灯を消せば彼方より来る滝の音(写生眼)

ビキニ着て股間の盛り上がりが猛虎(中八)

透明になるまで吐くや鉄線花(写生眼)

倒れても首振ってゐる扇風機(ゐる)

六月の捨てられてゐるプールかな(ゐる)

全力で寝そべってゐる夏の雲(ゐる)

綿菓子のやうなおかんを連れ歩く(やうな)

ハンカチをたまたま持つてたから好きに(中八)

ナイターを見る目が人殺しの目つき(中八)

夏屋敷パンに乳首のやうなもの(やうな)

ぐつたりと公園にゐるサングラス(ゐる)

割れ瓶に夕日が沈んでゆくところ(中八)

痔の色の蟹が来てゐる枕もと(ゐる)

眼から乾きだしたる羽化の蝉(写生眼)

たまきんが伸びきつてゐる扇風機(ゐる)

葡萄の皮と葡萄が同じ皿の上(写生眼)

桃の実や麻酔注射の匂ひして(写生眼)

ヘッドフォンに挟まれてゐる長き夜(ゐる)

肉まんのやうなうんこを霧におく(やうな)

ふるちんで喜こんでゐる林檎の前(ゐる)

女子会や赤き飲み物ばかり減る(写生眼)

冬晴れの置き逃げされたやうな寺(やうな)

ちぴちぴと蟹味噌を吸ふ寒暮かな(オノマトペ

仏壇から盗んだやうな半ライス(やうな)

手袋の丸まつてゐる三鷹駅(ゐる)

セーターを丸めた固さ新生児(写生比喩眼)

孤独死のきちんと畳んである毛布(写生眼)

冬眠のところどころにある命(写生眼)

ミラノ座の裏側にゐる年の暮(ゐる)

 

やうな・ゐる・そしてフルマインドネスによる写生眼

上記はことさら、カッコ内のテーマに沿ったものばかりを拾ったわけではなく、句集を読んでいるとカッコ内のようなカテゴリーの句が繰り返し現れるという実感があったので、それをメモしてみたというわけである。

何々をしてゐる何何

のような句はとても多いと思う。こういう状態の事物。という名詞のみで成立する形で、もっともシンプルで、もっとも俳句感覚が試される句形ではないかと思う。それを連発できるということは、四六時中俳人としての感覚で世界と交感していなければできないことだと思う。

やうな

 についても同じだが、ここでは人間の人間たる所以ともいえる大脳新皮質の連携を柔軟に発揮できなければ、陳腐な短文で終わってしまう。比喩といえば村上春樹さんだが、俳句ではさらなる観念奔逸的ジャンプが求められる。あるあるではだめ。そういえば似てるね、でも足りない。その類似を突き付けられた側の脳内モデルを突き崩すくらいのインパクトが必要なのである。

写生眼

 これは「俳句になる」と見極める眼を含む。この把握が松尾芭蕉以来、俳句のキモであるとわたしは思っている。的確な描写。記述した以上の情報を読み手から引き出すレトリック。共同幻想に根差しつつ、普遍へ通底する穴を穿つ衝撃が、日常的に存在することを露呈させる力を俳句は持っているのだと思う。

おわりに

このブログでは、北大路翼さんの句集三冊を読んでの感想をまとめる予定だったが、書き始めれば、引用したくなり、引用しはじめれば結局全てを書き写さねば済まなくなることが明らかとなったので、ここで終了する。

俳句の手本として、折に触れ読み返したいと思う。

団地妻シリーズ最新作に鮫(『見えない傷』より)