皮膚
榮猿丸さん『点滅』は、あとがきにニーチェの「華やぐ知恵」の一説を引用している。
「表面に、皺に、皮膚に敢然として踏みとどまること」
全ては表層であり表層の襞としてのみ存在は顕れる、と、わたしは考えており、その意味においてのみ唯物論を自負する者として、この一説にはひじょうに惹かれる。
そして、ここに「皮膚」が含まれることが、表現者にとっては決定的に重要である。なぜなら、「私」とは「皮膚」に境界され、皮膚を限界とする限定に他ならないからだ。
芸術にとって時間とは
皮膚には内部はない。
「存在」から考えると、皮膚の内部には時間の痕跡が貯留されているかのごとく思われる。だが、そもそも時間こそが「存在」を存在たらしめる方便であるにすぎず、その根源にあるのは「限定」なのである。
「時間」をテーマとする表現を拒絶するわけではないが、「時間」はあくまでも二次的な要素であるにすぎないとわたしは考える。
そして「詩」においては、絶対的に「非時間」でなければならない。
「詩」をわたしはそのように理解している。
優劣や本物偽物や徹底不徹底という二分法で評価するわけではない。だが、ある表現が「時間」にどれほど依存しているのかには自覚的であらねばならないと思う。そしてわたしは「時間」を離れた表現を求めている。
思い出は時間に依存する
そういう点で「俳句」はひじょうに有効な表現形式である。
昨今ではあまりに「視覚」偏重のきらいはあるが、非時間的である感覚として視覚が重要視されるのは、いたしかたのないところである。
「時間」に対して意識的であるように、「視覚」への依存度にもまた「意識的」であらねばならない。「写真」は時間をシャッター速度に切り取って、あたかも永遠化したものであるかのように錯覚されがちだが、それは単に過去の記録であるにすぎず、そのような記録が永遠性をもつか否かについてはやはり「時間」との依存度によってはかられねばならない。
それが失われた事である点に価値があるのだとすれば、それは詩にはなりえない。
不可能なまでに「今」であること
詩とは不可能なまでに「今」でなければならないとわたしは思う。不可能な「今」とは、皮膚による知覚ー認識ー認知という時差をもたない現実であり、人々が常にさらされていながら、誰一人その瞬間に立ち会うことできず、立ち会った際にはすでに脳内の複製としてしか保持されていないような皮膚の外の現実のことを指す。
榮猿丸さんの『点滅』
榮猿丸さんの『点滅』に収められた俳句は、トリビア、共時性、取り合わせという俳句のレトリックに長けたものが多いとはいえ、「時間」に依存する作品が多く、いわゆる「生活俳句」の秀作が大半であると感ずる。繰り返すが、これは俳句の良い、悪いや、完成度云々といった論点とは全く違う。好きな句として書き写した句も多数あった。とくに、俳句でなければ残せないと感じる景色がひじょうに多い。
五月雨や厩に馬の経穴図
朝起きて着るやTシャツ脱ぎ
喉まで釦責めなり休暇明け
Tシャツのタグうらがへるうなじかな
靴振ればいつまでも砂出でて夏
片陰や画鋲に紙片のこりたる
蒲公英や三つ揃ひ着てヘルメット
かたつむり肉出でて貌あらはるる
日覆や通りの女すべて欲す
葉牡丹や大甕あふれ傘の襞
片恋や卓つらぬける浜日傘
クーラーボックス氷ぶちまけキャンプ果つ
滑走路より長き金網みなみかぜ
瞼ひつくりかへすあそびや曼殊沙華
コインロッカー開けて別れや秋日さす
判断を保留したまま言語化するむずかしさ
「エポケー」という態度がある。俳句にはそのエポケーの状態で言葉を投げ出すようなところがあるが、季語の斡旋が必要となることからどうしても「判断」が入り込んでしまう。
とはいえこれは「季語」が「皮膚」化しているか否かという問題にもなることから、俳人としての技量はこの「季語の皮膚化」というところに行きつくものかもしれない。
言語は時差を埋められるか
無論「言語」化するという行為が必要とする時差は大きいのだが、その遅れを一気に取り戻すように言葉を使用することは可能であって、それこそが求められるレトリクなのではないかと考える。
おわりに
理論はともかく、実作においてそのような句「エポケー句」「超越的時間句」などを拾っていく作業は必要となるだろう。