望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

私小説としての佐藤優樹さん、物語としての道重さゆみさん 1

1.私小説としての佐藤優樹さん

 

今とのズレ

 佐藤優樹さんは、「今」を生きることに懸命です。

 彼女は常に「今」そのものであり続けます。それは、そうしよう、として、そうしているのではないような気がします。

 「今」という状況は、多重衝突事故そのものです。ぶつかるもの、ぶつけるもの、もらうもの、なくすものが、ひっきりなしで、一時も、とまる、ということがありません。そういう「こと」たちに、大小優劣をつけ、受け流したりすることを覚えて、「今」を「少しだけ過去」という、手にとって眺めることができるだけの距離を、作り出すことができるようになります。

 しかし、「今」を「少しだけ過去」にしてしまうことで、「生」きることが少し遅れてしまいます。生放送を数秒遅らせて放送することで、様々な不具合に対処できる時間的距離を確保するとき、「事故」は無かったことにできるようになります。しかし、佐藤優樹さんはそんな「ズレ」を気持ちが悪いと感じるのではないでしょうか。

事故と教訓

  「事故」は、当事者にとってその時その場に起きた一回性の事実で、個別な出来事です。その事故が個別性をなくしたとき、一般的事例の一つとして取扱えるようになります。「事故」にあった当事者の境遇は、誰とも共有することはできません。ただ、それをおもいやることができるだけです。そして、そのようにおもいやるのと同時に、自分はそんな目にあわないよう、気をつけよう。と考えることができます。そのとき、実際に起こった事故の様々な細部は、なくなってしまっています。そして、そのようにして得られたものを教訓と呼んだりしています。

拡張される世界

  佐藤優樹さんの発言は、よく「名言」として取り上げられます。

 それは「彼女の今」を必死で生き抜こうとする彼女が、「こうありたいと思う自分」を見失いそうになりながら、自分と、自分以外という境い目すら危うくしながら、「自分が、より良いと感じる今」にしようとする姿勢から生み出だされた言葉だということが一つ。

 そしてその言葉の選択が、一般の人とずれていて、そのずれ方が、その言葉が普通に持っている意味を、少しだけ拡張しているよう感じられるから、ということもある思います。言葉の意味が拡張するということは、その言葉で一般的に表される事物そのものが拡張されるということです。そのようにして彼女の発言は、この世界を揺さぶるのだと思います。

「名言」という標本

  そのように言葉を繰り出すことは、誰にもで出来ることではありません。彼女が育った環境にもよるのでしょうし、今おかれている状況にもよるのでしょう。そんな「今」を懸命に生きようとする彼女にとっては、まず「状況の私」があり、そのような状態にいちばんはまる言葉がどこにあるのかを、彼女自身の経験(それは「蓄積された今」にほかなりません)から探しているのだと思います。

 片時も休まずうねり続けるこの世界に、自分自身としてぶつけることができる言葉、少しでも信頼できる言葉を、ぶつけたりぶつかったり、もらったりなくしたりしたものの中からつかみ出そうとしているのだと思います。そういう風に言葉を信じる彼女には、言葉の一般的な意味なんていう、辞書の上にピンで止められた採集標本なんかでは、全然足りません。だから、彼女の言葉を「名言」として愛でることは、標本をみてニヤニヤしているのと同じことなのだと思います。

私小説=事故

  そして、彼女という「事故」こそが、「私小説」なのだと私は考えます。「彼女の世界」が現われる亀裂を目撃し続けることで、私の眼前に「世界」が現われてくるのではないかと、思っているのです。

(2 物語としての道重さゆみ に続く予定)