望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『嘔吐』しない佐藤優樹さんに親鸞が召喚されること ―インタビュー『モー娘。楽曲・深読み講座』より

はじめに

今回はこのインタビューを読んで感じたことをまとめるつもりだ。それはつまり、このインタビューをもとに、私が佐藤優樹さんを二次創作する 試みに他ならない。全ての物事は、自らの不透明な体を通してしか、語り得ないからである。

 

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ブログ本編

 佐藤さんは、このインタビューで「日本語は苦手」と言いながら、懸命に「音」の「言説化」を試みている。そこには、佐藤さんが「つんく♂さん」の曲の伝道師たらんという矜持があるのだと思う。大学で音楽理論を学び始めたのも、この伝道のためではないかと感じられる。

 佐藤さんは「つんく♂さん」の曲を「この子」と呼び、「この子」の快不快に共鳴しつつ、その曲が喜ぶためにはどうすべきかを懸命に実践しようとしている。

 また、こうしたペルソナ(魂)を持った曲が、悩み苦しんでいる人に寄り添い、支えとなることを知っている佐藤さんは、以前から「この曲を聞いて」「音楽は裏切らないよ」などの言葉をかけてきた。あたかもその曲が、それぞれの「苦」に対応する「経典」ででもあるかのように。

 佐藤さんは対人関係について人と同じように感じたり考えたりできないことを、ずっと悩んでいる。だがその一方で、ハロプロメンバーからは、「佐藤さんが気付いて声をかけてくれて、救われた」との発言をよく聞くのである。

 その意味でも、佐藤さんは共感の人ではなく、共鳴のだろうと感じる。自分と他人とが分かたれたまま、理解し合うことの難しさと、通常であれば、その困難は、ある程度言葉で誤魔化されるのだが、その言葉が、佐藤さんには今一つ響かないせいで、言語によるコミュニケーションを常とする周囲との、反応速度と接触面積の違いに馴染めないでいるのだと感じる。

 音は感情に直結し、それは言語化不可能な流動性をもつ。サルトルの『嘔吐』は、言語化できぬ存在の流動性に触れたとき起こるのだが、佐藤さんは、まず「音」という、言語よりもずっと広く流動的な響きの中に生きているので、それと言葉との齟齬に出会った際には、戸惑い、荒ぶることはあっても、けっして嘔吐することはないだろう。

 生来の音の人であり、理解を「主客同一」の共鳴に求め、人の悩みを聞き、癒す音(経典)を与える耳と声の人。そんなところから、私は佐藤さんに親鸞を感じたのである。

 佐藤さんにとっての「つんく♂さん=世界」がどのようなものであるのか、それはどのような手触り(響き)なのかを、メモしておきたいと感じた。佐藤さんの「言葉」と響き合っていると感じたサブテキストからの引用によって、その織り成す和音とリズムの片鱗だけでも、残せれば幸いである。

合奏の試み

音(インストゥルメンタル

この曲は、この世の中にない音を感じます。まねしようと思っても、まねできない音だと思います。つんく♂さんの和音なんですかね。音が細かい。(…)つんく♂さんの脳みそをさまよっている感じがするんです。

(『Fantasyが始まる』)

 「この世にない音」唯一無二のオリジナルな音。それが佐藤さんを「つんく♂さんの脳みそ」へ誘う。

 「脳みそ」というのはとても重要な指摘だ。それは「心」ではない、という意味で。この世にない「音」を、「和音」「音が細かい」と分析するとき、「音」を「記号」の側面から読み解こうとしている。それは、「心」の仕事ではないのだ。こうして「音」は「心と脳」の二通りの意味を担わされる。

『縺れ合い、絡み合う無数の”意味可能体”が表層的”意味”の明るみに出ようとして言語意識の薄暮のなかに相鬩ぎ、相戯れる。"無明”がいままさに”有名”に転じようとする微妙な中間地帯。無と有のあいだ。無分節と有分節との狭間に、何かさだかならぬものの面影が仄かに揺らぐ。(『意味の深みへ』『井筒俊彦(河出書房)』p62)』

 

つんく♂さんの曲はインストを聴けば聴くほど、私は泣きそうになるんです。歌詞がなくても言葉が伝わってきません? それがつんく♂さんの曲のすごいところ。
(『Help me!!]』)

『「色界第二禅天」この「光音天」の住人は、口から浄光を発して言語の代りにしているのだそうである。(稲垣足穂 『A感覚とV感覚』 『身体の宇宙誌』鎌田東二)』

『歌詞がなくても言葉が伝わってきません?」から、佐藤さんが、ある意味われわれが幼いころから訓練させられてきた「感情」の言説化(「ちゃんといわなきゃわからないでしょ」)を、習得していることを表しているのだと思う。と同時に、佐藤さんの母語である「音」だけで他人に感情を伝えることができないのだという自覚をも感じるのである。

(間奏を聴きながら)つんく♂さんの間奏は、すごく意味があるように聴こえるんです。ここは決意のところ。「もう心を止められないから頑張ります。あなたが必要」って女の子が言っている。だって、その人のせいで心が壊れたけど、その感情を知れたから。その人で直すことでしか収拾がつかない。そういう曲なんです、私の中では。(『KOKORO&KARADA』)

「音」を母語とする佐藤さんは、感情を言葉で抑制されずに成長してきた。言葉による抑圧とは意味による刈り込みだから、感情を言語化すれば、感情は痩せてしまう。

 だが、言葉(意味)を一時手放したかに思われる佐藤さんにとって、言語によって構築された内面こそが仮設であり、その不安定な足場の下には、滔々と流れる感情の大河がある。佐藤さんはその川を泳ぐとも流されるともつかぬ不思議な戯れ方をしてきた。言語の不完全さは、言語として認識しうる「音」が、非常に制限されしまうことからも明らかだった。音によって構築された(ともいえない流動的かつ唯物的な)宇宙に通底する存在を生きる佐藤さんにとっては、音をこのように読み解く(聞き取る。同化する)器官が保持されているのである。

ただ単に「ギューされたいだけなの」っていう感じが、今回はインストと合っているなって思いました。ただ包み込んでほしいって思っているのかなって。(『ギューされたいだけなのに』)

 

それと、男性側にも意見があるんだなっていうこともこの曲で思いました。でも、男の人が寄り添えていると思っているのは、女の人が寄り添ってきてくれているからだと思うんです。全部が鏡だから。……というのを、インストを聴いて感じました。私、日本語が苦手だし、そういう感情に出会ったこともないので。(『ギューされたいだけなのに』)

さまざまな感情に出会うことは、佐藤さんの世界をより広げていくだろう。だが、アイドルという現在の立場では、制限があったりするのだろうか。

 ただ、言語という鈍くて遅延した媒体によって表白された感情は、残念ながら佐藤さんにとっては濁った分かりにくいものなのだろうと思う。理想としては、

『当然コトバ(言葉以前の存在分節の動力となる、つまりは存在のこと)は透明でなければならない。書き手が並べた透明なコトバの連鎖を通して、その向こう側に書き手の心に始めから存在していた意味―つまり言語以前のリアリティー―を理解する、それが「読む」ということだ。(「『読む』と『書く』」井筒俊彦 『井筒俊彦日野啓三p.66)』

「コトバ」は「音」と読み替えてもよい。その場合、「読む」は「聞く」となり、書き手は「奏で手」とでもすればよいだろうか。

 

この子(曲のペルソナ)

この子(曲)の考え方がつんく♂さんの脳みそに、ちょびっとだけ近いんだと思います。(『Fantasyが始まる』)

 

いくらどん底にいても「やってみよう、頑張ろう」って考えている、すごいポジティブな子(曲)なんですよ。すごく人間味がある曲。

(『Help me!!]』)

 

セットリストで嫌な位置だと「私、この場所イヤ!」「ふん!」ってなる。(『What is LOVE?』) 

 

「心を失くしたとき、あなたは好きか嫌いかどっちに倒れますか」っていう歌。 (『KOKORO&KARADA』)

  佐藤さんは曲を「この子」とよび、それぞれにペルソナを認めている。それは、さまざまなパーツの集まりを「人間」と呼ぶかのようである。

 作者(つんく♂さん)の製作意図を離れてそのペルソナは存在する。細胞の集合体である人体が霊を持つように、音素の集合体である曲も霊をもつのである。その霊は楽曲という高次元体として顕現し、顕現したからには意思をもつ。歌詞の意味や、インストゥルメンタルから佐藤さんが感じたものとは違う、それらが流出する基体として、身体無き身体として、楽曲は、演奏されている時間にだけ現前し、その後は記憶に残存する。存在は、統御不可能なカオスを保持し続け、言語が構築する世界において、善悪の二面性をもって現れる。

 

この子(曲)はつんく♂さんとモーニング娘。が大好きで、力をあげたいって思っている子。だからつんく♂さんが歌うと喜ぶんです。そもそも、コンサート会場につんく♂さんがいるかいないか、私は音を聴けばすぐわかるんですよ。音楽のハネ具合が違うから。つんく♂さんがいるときは、音楽“ひとりひとり”がみんな喜ぶんです、「パパ~!」みたいな感じで。こんなに音楽に愛されてる人いないと思う。(『Help me!!]』)

『この魂には宇宙の風が吹き通っており、この恐るべき矛盾錯綜はディオニュソス的性格のものである。だから自分で本当にディオニュソス的な不気味な叫び声を心の耳に聴いたことのある人だけにわかるのである』(『ロシア的人間』井筒俊彦 『井筒俊彦吉村萬壱 p.52)

つんく♂さんの曲ってめちゃめちゃ繊細で性格が違うから、曲の順番によって全然印象も違ってくると思うんですよ。ホント、ガラスのハート。セットリストの並びってすごく重要じゃないですか、それをやりたい。つんく♂さんやスタッフさん以上に曲を理解しているかといったらしていないけど、私がどれくらい音楽を理解できているのかを知りたいし、チャレンジしてみたいです。

曲のペルソナの喜ぶコンサート。ぜひ観覧したい。

 

二つの音

(…)つんく♂さんの曲は、歌詞よりも音で感情が伝わってきます。(…)だからインスト(…)を聴いて、“つんく♂さんはこれを伝えたいのかな”って理解しようとします。(『Fantasyが始まる』)

『その音楽の部分はどうしても言葉にならない。言葉やほかの表現では置き換えられないっていうのは、よく知っていたことなんです』(EV.Cafe 坂本龍一 p.47)

  

つんく♂さんは、歌詞(の印象)と曲とで使われている音が違うなって思うことが多いんです。(『Fantasyが始まる』) 

歌詞と曲。佐藤さんは両方とも「音」としてとらえる。歌詞には言葉としてのまとまり、切れと、譜割りによるまとまりと切れがあり、言葉そのものにも、母音、子音、壱音ずつの性質がある。音(曲)を聞く器官で詞(言葉)を処理するとき、脱落するのは言葉の意味である。佐藤さんは、つねに二つの音、それは二つのコトバといってもよいのだろうが、その狭間で苦闘する。

 

伝われ~!(笑)。(歌詞を見て、曲を聴きながら)最初は全部自分ばっかり。自己中なのをわかっていて、自分っぽくないなと思っているところ。Bメロはかぶせ(メロディーが追いかけるように重なっていくこと)が入るんですけど、普通の自分と情緒不安定な自分がごっちゃになるんですよ。(『KOKORO&KARADA』)

 

この子は頑張り屋さんで愛も強いけど、その彼氏とは理解し合えない。でも歌詞にはあんまりそういう感じが出てないんです。(『Are you Happy?』)

 

【♪ここから出して】は、この関係から出たいっていうことだと思うんです。熱いものってちょっと離れたらあったかいけど、近づきすぎたら熱くてやけどする。その状態です。やけどしたままずっと一緒にいたら、自分がボロボロになるから離れようって。(『Are you Happy?』)

 

サビの歌詞はずっと変わらないんですけど、前半は過去の話で、女の子が自分のことしか見えていないから男の子が壊れていく。女の子はそこに気づくのが遅かったし、男の子は言わなかったから。だけど、ここ(間奏明けの【♪Are you happy?】)で理解するんです。「さよなら」って決心する。だからここだけ、時計の音がするんですよ。(『Are you Happy?』)

 

正直、この曲のことは最近やっと気づいたんです。歌詞を見てインストを聴いて、全くわからなかったけど、やっとわかった。気がする。こういうことやっていると頭が痛くなるんですけど、それをやってのめり込まないと、つんく♂さんの歌詞って難しい。なんでこの言葉になったんだろうって。(『Are you Happy?』)

 

『坂本 (…)反体制とか国家とか、そういうことに興味を持つことと、自分が音楽をつくるということと、脳の違う部分でやっているわけです。詩人なり小説家なり絵描き、フォークをうたう歌手もそうかもしれないけど、彼らは無理やり結びつけることができるわけです。(『EV.Cafe 吉本隆明 p.46)』

好きな人と付き合えるなんて、とっても宝みたいなことなのに、どうしてそうなっちゃうんだろうって相談を受けた時期に、さっき話した『Are you Happy?』の歌詞の意味がわかってきたということもありました。

 

『Are you Happy?』についての言説化は、以前に比べて格段に深く、明晰になっていると感じる。

 

mochizuki.hatenablog.jp

言説化の苦悩

 【♪ああ 女なら感覚で分かるだろう】につながるのが、「なんでこの歌詞になった?」って思いません? 私はいまだにわかっていない。(『私のなんにもわかっちゃいない』)

『「詩的言語」の精緻な分析から出発したフォルマリストたちの「新しい形式探求の実践は(…)意味をフォルムとして把えなおす「形態学」であった。(ミハイル・バフチン)・他者の言語との内的対話性の理論。・脱中心的で多音階的な散文体の強調(『「名づけ」の精神史』p.64)』

最初に、「つんく♂さんの曲は歌詞と音にギャップがあるんですか?」って聞かれましたけど、そうじゃないんです。言葉にできていない自分が悪いんですけど、こういう伝え方しかできなくて……こんなの文字にできないですよね(笑)。(『私のなんにもわかっちゃいない』)

五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり(『五大領』空海

この「もう私、知ってますよ」感は、イタい人です(笑)。私が今、つんく♂さんのことをペラペラしゃべっているような感じ(笑)。つんく♂さんからしたら、「あっそ」って思うかもしれない。(『純情エビデンス』)

親鸞法然の「おほせ」を「かぶる」ことを通して、阿弥陀如来と直接する絶対他力の神髄にふれ、わが身がこの世に生まれ出ずる未生以前の昔からすでに救われていることの「不可思議」の事態に気づいたのである。(『身体の宇宙誌』鎌田東二 p.373)

 

(…)経験する・しない、未熟かそうじゃないか、説明できる・できない。説明できたら理解している、できていなかったら理解していない。音楽のこともそう。つんく♂さんの音楽の説明がうまくできないってことは、まだ自分に備わっていないっていうこと。(『純情エビデンス』)

 『おほせをかぶる」とは、いわば声の肉体を着ることなのである(同書 p.371)』

 

この子は味方(経典としての楽曲)

(…)この曲はずっと、つんく♂さんの味方だと思う。(『Help me!!]』)

 

ameblo.jp

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音楽は横山を裏切らないよ。
音楽はさ、
横山が楽しんでても落ち込んでても何してても
ずっと変わらず同じく流れていくでしょ?
だから何があっても音楽はずっと横山の味方なんだよー!

親鸞の浄土は「一切の諸天はもろもろの音楽を奏している」』(同書p.369)

 

音霊

(『BEST WISHES!』(2019年春ツアー)で一曲目になったとき))イントロのダダッタダダッタダダッタの時点で聴こえ方が違うと感じました。私が曲の気持ちに沿わずに日本武道館であおったとき、マイクが勝手にオフになっちゃったことがあるんです。曲に受け入れられていないと、音楽に逆らうと、本当にそういう事故があるんですよ。私はそう思っています。(『What is LOVE?』)

『坂本 だけど音楽の機能なんて、LAなんかを見れば全く明らかなんであって、完全に宗教だし、神だし、神の代理というか、まあ宗教そのものですね。(EV.Cafe 浅田彰 p.349) 

 

伝道者として

今回つんく♂さんの曲について久しぶりに言葉にしたんですけど、こうやって話す機会を与えてもらって、話を聞いてもらえるだけですごくうれしいです。説明するのが得意じゃないから、メンバーとかに話すと「大丈夫?」って言われるんですけど、言葉にするだけで向上できる気がしますもん。うまく説明できなくても、どうしてもつんく♂さんの曲を伝えていきたいんですよね。卒業したらこの業界から離れたいと思っているので。

『語り得ないものについては沈黙しろと、ヴィトゲンシュタインは云うが、それもまた非ず非ず。語り得ぬものを語るという永遠の徒労のなかに語ることの意味も両義的に含まれているからこそ、人間は必死で語る努力をしてきた。(『井筒俊彦田口ランディp.46)』

――でしたらなおさら、“勝負”=卒業と思わないでくださいね! 以前はモーニング娘。のプロデューサーになりたいと話されていたこともありましたよね?

そうなんですけど、それはもうあきらめかけてきているんですよね。コロナの外出自粛期間が終わってメンバーと久々に会ったときに、みんなは人の立場になって考えることができるけど、私にはできていないなって思って。

まずはそれをできるようになりたいなって思うのと、こうやってつんく♂さんの新曲を出せることにも感謝したいです。でも私「ありがとうございます」って簡単に言えないんですよね。言葉では言えますよ。でも言葉がお返しとは思えないから。 

 

 おわりに 

 

マラルメは『世界は一つの巨大な書物だ」と言った。芥川は人生を落丁の多い本にたとえた。しかし私は世界を無数の音の響きだという。そして言語はその豊な響きを器官的に刈り払ったところで成立している。だから、言葉は常に音を裏切る。

 世界の響きは透明な音である。だがそれを聞く身体は不透明でなければならない。不透明であることが存在の絶対条件だからだ。不透明な体で感知する音は濁ってしまう。その濁りにも様々な度合いがあるが、濁っていることと、濁りのない響きを聴く器官をもつものとの差ほど大きくはない。

 そうした器官をもつものは、まず音があり、音で感じ、音で思考する。それは、ロゴスよりパトスに近い流動的体系である。その世界認識を、「つんく♂さん」と「つんく♂さんの曲」(この「つんく♂さん」は、必ずしも、つんく♂さん個人を差すものではなく、佐藤さんが「つんく♂さん」と認識する現象の総称のようなものだ)によって、表現しようとしてくれている。

 他のだれが、このようなことを試みるだろう。

佐藤さんが「つんく♂さん」の曲に全幅の信頼を置き、佐藤優樹としてその音と同化しつつ、言語世界へ往還する菩薩道を生きてくれることに、感謝しつつ、今後も注目していきたいと思う。

卒業したらこの業界から離れたいと思っているので。

そのとき私は、この世界に「宿命」なるものが在るのか無いのかを知ることになるのかもしれない。