はじめに
手本にしたい短歌を見つけた
手にしたのは偶然だった。一読して、唖然とした。
しばらくは地上を走る電車から桜並木のある街を見た
これは、短歌なのか?
赤い火がときおり起こるうなぎ屋の小さな窓を雨の日に見た
口語定型は間違いない。だが、短歌としての飛躍は? 発見は? 技巧は?
詩情はあるか?
厚紙を二つに折った縦長の春のメニューに日が差していた
こうした作品が続く。歌集一冊全てがこの調子の短歌で埋め尽くされていたら……
わたしは空恐ろしさを覚えていた。
共依存
こうした短歌を目にして、パニックを起こしながら、わたしは正岡子規の以下のような短歌を引っ張り出してきた。
くれ竹の根岸の里にかくれたる人を訪ふ日の薄花曇
朝な朝な掃き集めたる落椿紅腐る古庭の隅に
しかし、どうも調子が違う。子規の歌は、選択の目が、強く働いている。それは「観察眼」と呼べるもので、主体としての芯が太い。
だが、嶋の短歌には「観察眼」と呼ぶほどの視線選択の強さを感じない。本当にただ目の前にある光景を、散文の中の一文ででもあるかのように投げ出しただけであるかのようである。
いっぽんの夏樹の影が差しかかる駐輪場に自転車を置く
地上までまだ少しある踊り場に桜の花が散らばっていた
子規の短歌の一首にこめられた時空と感情は、その一首のに完結する。だが、嶋の短歌の世界は一首で区切ることができないように思う。時空連続体のなだらかな流れの中に作者も短歌もゆるやかに流れている。短歌は短歌として存在するのではなく、世界とつながりを保ち続ける。というよりも、短歌に示されなかった短歌の外の世界に依存しており、そのことが逆に、短歌の外の世界の方も、短歌に示された世界と依存関係を持つという、共依存関係を生み出しているのではないか。
切断面において全体を表現すること
以前、上記のブログでわたしは、『アルプススタンドのはしの方』 作:籔 博晶( 兵庫県立東播磨高等学校)が、非常に限定された場面を切り取ることで、関係する人々が所属する世界の全てを表現しえた、という点で凄い演劇作品だった、と記した。
嶋の短歌にも、そのような凄みを感じたのだ。
すずらんを模した灯りがまっすぐに東口から続いて見える
なだらかにななめに降りる堤防の左岸は白く夏草が咲く
抒情と叙景
嶋の短歌は「写生」ではない。「眼」は、観察眼ではなく、無造作に押されるカメラのシャッターでもなく、延々と撮影される動画から適宜切り取られた数秒間である。だがこの「適宜」こそが、嶋の短歌において唯一「主体」が発動する機会なのである。
短歌にする景と短歌にしない景。短歌として定型にまとめるための取捨選択。そして語順などの技巧、レトリックの適用。嶋の短歌は、その全てがひじょうに低い熱量のうちに実行される。いわば、つねにフラットな状態で世界を映し続ける中で目にとまった景を、ふと口ずさむとき、それが口語定型になっていた、という風に感じられるくらい、短歌のもつ体温は低い。
建てかけのタワーの上にクレーンが動かずにある三月の朝
いつからかアザミの伸びたデニーズの駐車場から駅まで歩く
この、静謐な叙景のそこかしこに、嶋の静かな佇まいを感じながら読み進むとき、世界は恐ろしいほど広いのだ、という崇高な感興が起こってきて、戸惑う。
短歌は叙景によって叙情する詩形といえる。この景と情の関係性は、見立てや比喩なのが通常である。だが、嶋の短歌においては比喩関係などの間接的な連なりはなく、かといって、景=情 という直接的な結びつきでもない。乱暴に言えば、嶋によるこうした短歌は全て一つの情を指しているように思われる。この「一つ」とは「世界の驚異に対する畏敬」であり、それは抒情以前の、原始的な、感情の根源なのである。
感情以前の感情だからこそ、それは全体的でありながら、静謐なのである。
赤い葉の垂れる歩道をひとときの陰りが通り過ぎようとした
ぼんやりと明るい夜がカーテンの薄い布地を波打っていた
おわりに
わたしは、短歌に「詩情」を求めるあまり「幻視」を目指そうとしていた。だが、それは相応の素質が必要な道だった。そんな中で、嶋稟太郎の短歌を知ったことは大きな転換期になった。
始めの方で、わたしは、「こうした作品が続く。歌集一冊全てがこの調子の短歌で埋め尽くされていたら……
わたしは空恐ろしさを覚えていた。」
と書いた。
この歌集において、わたしが戦慄したタイプの短歌は前半部に集中しており、読み進むにしたがって、いわゆる通常のタイプの短歌が増えていったのは、残念だった。
この歌集が編年体なのかどうかは知らない。また、例によって嶋稟太郎のプロフィールにも興味がない。
ただ、この歌集から抜き書きした150首程の短歌が、わたしにとっての嶋稟太郎の全てであり、それらが今後の手本になっていく。
ひじょうによい出会いだった。