望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

叙景短歌における比喩の功罪 ―toron*の比喩の的確さ

はじめに

 前回に続いて、テキストは『羽と風鈴』嶋稟太郎 から抜き書きした150首だ。今回のテーマは「叙景短歌における比喩の功罪」である。

比喩は限定する

 比喩の大半は、作者が伝えたい事物を読者に届ける際、その性質を限定するために用いられる。ある時は、単に形象をつたえるため。またある時は、比喩に用いた事物が供える性質のなかの幾つか、もしくは全てを、比喩される対象にも付与するために。

雨あがりあんなとこにもト音記号みたいな傘が引っかかってる toron* 『イマジナシオン』

 現代短歌の日常詠における比喩の名手といえば、toron*だと私は思う。例に挙げた短歌では、高いところに引っ掛かけてある傘を「ト音記号」に見立てることで、その形象と、引っ掛かっている感じを示した上、明るい音楽の要素を付与して、雨上がりのうれしさまでをも表現している。

フラミンゴきれいに足を折りたたみあの日なくした傘かと思う toron*『イマジナシオン』

 傘を「ト音記号」に見立て、フラミンゴを「傘に」見立てる。するとフラミンゴとト音記号も相互に見立てることができそうだ。
 フラミンゴの歌では、なくしたのは傘だけではないのかもしれないと思わせる余韻が、この比喩から生まれている。それはただの「傘」ではなく、「あの日なくした傘」という限定によって生まれる豊かさだ。

開かれて窓の格子に吊り下がるビニール傘が通路に光る 嶋稟太郎『羽と風鈴』

 ぶら下がっている傘を読んだ嶋の歌だ。比喩は用いていない。
 濡れたビニール傘を乾かすために、アパートの薄暗くて狭い外廊下に面したおそらくは流し台のの前にある窓のアルミの格子に開いたまま引っ掛けてある。その傘が光っていた、というのだ。
 この「光る」に何らかの意味を持たせる読み方を私はしない。「光」を希望や、希望を求める失望ととらえる紋切り型は、この短歌そのものを陳腐で狭いものにしてしまうと考えるからだ。

台風がこれから来るという夜のコンビニエンスストアの明かり 嶋稟太郎『羽と風鈴』

 この歌の「明かり」は、何かの比喩であろうとしている。
 前段の「台風がこれから来るという夜の」が、この「明かり」の意味を極端に狭めてしまっている。というより、「意味」を付してしまっている。この短歌は「叙景」の顔をした抒情歌である。

空き壜とふた捨てにゆく階段のところどころに照らされながら 嶋稟太郎『羽と風鈴』

 この歌は、全掲の二首の中間くらいの位置にあるように感じる。
 「照らされながら」はぎりぎりで「叙景」といえなくもないが、上の句の選択に「暗さ」を感じることから、やはり抒情的要素が強いと思うのだ。
 例えば「照る月明かり」など、自らが照らされているという内省的な感じを払拭すれば、叙景に近づけることはできるかもしれない。

 toron*は、「傘」を「ト音記号みたい」、と喩えるために「あんなとこにも」という句を用意する。これは冒頭の「雨上がり」と頭韻を踏み、「ト音記号」の「ト」の韻も準備する周到なものである。またこれにより、ト音記号がたくさん空に浮かんでいる想像を膨らませることができる。この意味で、toron*の「ト音記号」は、傘という事物を限定するのではなく、広げていくように用いられていることが分かる。

水滴を閉じ込めたままいくつものビニール傘が傘立てに立つ 嶋稟太郎『羽と風鈴』

 「閉じ込めたまま」という表現に、作者の主観が強く出ている。この歌からは、いくつもの傘に閉じ込められている無数の水滴が想像できるのだが、それは「水滴」を何かの喩えとして認識することにつながり、擬人化による鑑賞が成立しうる原因ともなる。そうなると「叙景」とは言い難い。

 比喩とは作者の主観による世界認識の押し付けなのだ。

 前回も書いたが、わたしが恐怖した「叙景歌」は、歌集を読み進むにつれて減っていく。この「水滴を」の短歌は中盤以降に掲載してあったものと記憶している。独立した一首というより、連作中の短歌という気がする。作者の主観表現が混入した分、叙景の力が弱まったのである。

嶋凛太郎『羽と風鈴』の比喩

わたしが『羽と風鈴』から抜き出した150首の中で比喩を用いたものを探してみる。

  1. ごく浅い長方形の湖が向かいの家の屋根にあらわる
  2. 風に鳴る楽器を思う エアコンの風が静かに背中に触れる
  3. いちめんの白詰草の中に立つアパートは詩か目を閉じて見る
  4. 手のひらに収まるほどの液晶が君との間にあるだけの夜
  5. かさぶたを剥がしたような西の果て飛行機雲はどこまで続く
  6. 刃のごとく吾が前にある砂浜の黒きところに入りてゆきたり
  7. 手を前に伸ばすと空を飛べそうな二〇世紀の感覚がある
  8. 自動車の赤いランプの連なりが橋の終わりでほどけ始める

1.は幻視的な短歌で、この歌集のなかでは希少な部類に入る。「ごく浅い長方形の湖」が何を指すのか分からない。(太陽光発電パネルだろうか。けれど得体のしれないものであるほうがおもしろい)考えてみれば、比喩とは、このような用い方が正当なのではないかと思う。従来の言語セットで表現できないもの(名付け得ないもの)を指示したい場合は、比喩に頼るしかないのである。その意味で、この歌は非常に原理的な「叙事」と言える。

2.は比喩であることをぼかした用法だが、自らの背中を「風で鳴る楽器」と見立てるものだ。痩せた背中、肺などが想起され、咳などの病をも想像できる。だが、それ以上のものはなく、意味が解ければそれでよい、というたぐいの短歌である。

3.「詩か」(?)と問いかける珍しい用法の比喩である。だが、この用法によって「いちめんの白詰草の中に立つアパート」が豊かになっているかと考えると、まったくそういうことはない。主眼は「詩か詩ではないか」に移ってしまい、結局「目を閉じて」しまうからである。

4.これも比喩ととらえると、比喩でないものがなくなってしまう、という考え方もある。液晶そのものを何かで喩えたとき、それは確実に比喩なのだが、この歌では液晶のサイズを示すために「手のひらにおさまるほどの」という比較を用いている。ではなぜ、これが比喩になるのか? 問題は「ほどの」にある。叙景であれば、液晶は手のひらにおさまっている のか、おさまっていない のかは明確だ。「手のひらにおさまるほどの」は読者それぞれの個人差を想定した形容だ。そのため、液晶のサイズがかえって曖昧になっている。

5.「かさぶたを剥がしたような」は夕焼けの比喩だ。

久々の定時退社でこの部屋の窓が西向きだったと気づく toron*『イマジナシオン』

 toron*の歌は叙景ではないが、夕焼けをどう詠むかの難しさを表している。『イマジナシオン』のなかにこれ以外に「夕焼け」を扱った歌は見つからなかった。(見落としているのかもしれない)

6.日本刀の刃文のイメージだろうか。入水の危うさを暗に示しているのかもしれないが、砂浜に刃のイメージはあまりにも古風である。

7.上の句全てを比喩に用いて表したかったのが下の句の「ニ〇世紀の感覚」であり、具体性がまったくない。完全に叙景を離れた感覚的な短歌である。

8.一列だったテールランプが「解ける」という表現。先に記した傘の水滴を閉じ込めていると表現する方法に類似するように思う。ある状態をしめす場合、普段は用いないカテゴリーの動詞を用いることで、正確かつ鮮烈な印象を与えられる。

いつもより派手な靴下履いてから立ち上がるわたしと日曜日 toron*『イマジナシオン』

 toron*の「立ち上がる」が示す豊かさに比べると、嶋の「解ける」は単に状態の説明のみに終わっているように感じる。橋の上という前にしか進めない束縛された道を抜けて、それぞれの家などの目的地へ向かう、という心境は「解ける」では表現できない。叙景的な表現ということならばこのように用いられた「解ける」の貧しさはやむを得ないと考えるべきか? ならば「解ける」ではなくもって端的に「分かれて進む」などでよいのではないか。

叙景的比喩とは

隣席の拍手にならってする拍手のように市営団地の点灯 toron*『イマジナシオン』

 この短歌は、一斉にというほど同時ではなく、だがほぼ同時にパラパラと同時多発的に、明かりを灯っていく団地の様子を的確に示しており、もはやこれ以外に表しようがないようにさえ思われる。これはほとんどの文字数を比喩に用いていながら、完全な叙景短歌である。

 わたしは先ほど、「比喩とは作者の主観による世界認識の押し付けなのだ。」と書いた。だが、この短歌の比喩は、まったくその感がない。

 それはtoron*が、この様子を徹底的に叙景としてとらえられれば、それ以外の要素を付け加える必要はなく、エモーショナルな感じを表現しつくせると見積り、その叙景の的確さを短歌の中で的確に表現でき、かつ読者にも想起させる方法として取り合わせた比喩だからだと思う。

 実景として、パラパラと点灯する団地の灯を見ていて「ああ、いつ演奏が終わるのかよく分からないクラッシック曲の演奏の後に起こる拍手みたいだな」などと思った経験から、この比喩表現を編み出したのかもしれない。

おわりに

 今回は、叙景短歌に比喩は不要、という結論になると考えて書き始めたのだが、toron*の『イマジナシオン』を久しぶりに開いて、叙景であるための比喩が可能だということを再認識した。だが、このように比喩を取り扱えるのは達人だけだろう。比喩によらなければ正確に表せないことであった場合、今の自分の技量では「留保」するよりほかなさそうだ。