はじめに
思想家が陳腐な語や出来合いの表現を自分に禁じようとするのは、それらのせいで精神がなにごとにも驚かなくなり、日常生活が実用的なものとなるからだが、芸術家も同じようにして、不定形な物、つまり独特のかたち(フォルム)をもったものを研究することで、自分自身の特異性をふたたび見出し、さらには自らの眼、自らの手、対象、そして自らの意思とのあいだの根源的で独自の連携を取り戻そうと試みることができる。(『ドガ ダンス デッサン』 ポール・ヴァレリー著 塚本昌則訳 岩波文庫 pp,94-95)
日常文的短歌と非日常文的短歌
短歌の形式には大きく分けて、日常文的な短歌と非日常文的な短歌とがある。この分類において「比喩」の有無は考慮しない。
日常文的な短歌とは、例えば俵万智さんの短歌であり、非日常文的短歌とは、塚本邦雄さんの短歌である。
俵万智さん
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 『サラダ記念日』
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの 『サラダ記念日』塚本邦雄さん
ほほえみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一台 『感幻樂』
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも 『日本人霊歌』
さて、今回のブログでは、日常文的短歌が「短歌」であるか否かを定めるものとは?、をスルーし、日常文的な五・七・五・七・七で区切ることのできる三十一音を「状況の短歌」と乱暴に括り、こうした因果、説明、起承転結という言葉が慣れ親しんだフィールドから「非日常文的短歌」に逃れるメソッドとして「歌留多遊び」をしようというのだ。
作為を離れるメソッド
芸術において顕著なのは、「作為を離れたい」という欲求だ。手馴れた感じに安住しないため、利き手ではない方で、極端に長い筆を用いて小手先の器用さを封じること。日頃の鍛錬によって構築した目と手の運動神経の連動を常に破壊し、再構築し続けることにより、世界を日常のモジュールから解放すること。
シュールレアリスムとは、作為を拒否し、深層心理にその源泉を求める運動だったし、ダダイズムとは、表層だろうが深層だろうが「心理」に根拠を求めることそのものを「作為」と見做して、それすらも拒否しようとした運動だった。それは突き詰めれば、出鱈目=自由となり、やがてその自由さそのものがすでにあらゆるモジュールに支配されていたということ明らかにされると、それらのモジュールを外すための厳格なメソッドが提案されたり、意思にかかわらないオートマチックな生成プログラムが作成されたり、数学的確率のみを採用したり、といった支配から離脱するための支配を求める方向へ進んだのであった。
AI生成・短歌カード生成
五音・七音・五音・七音・七音 の言葉を書いたカードをシャッフルして捲っていき、文を生成する。このように生成された文は形式的には短歌の性質を有している。こうした遊びにおいては、意味がとれるかとれないか、無理やり、深読みできなくもないといったでたらめさの文が生成できるところに面白みがある。
言葉が、その前後にくる言葉を選択できない状態で文を組織すること。要素としての「言葉」は、「皇帝ペンギン」とか、「寒いねと」といった日常語でよい。
重要なのは、前後の脈絡によって選択されるのではない言葉によって文が構築する方法に「慣れる」こと。なのである。
言葉の自由さとは、言葉の言葉の脈絡からの離脱である。
一首の短歌が成立しているように感じられるのは、それが短歌の形式を形成しているからにすぎず、それぞれの要素は、たまたま、そこに現れたにすぎない。その連なりに必然性は無く、意味は後から付与されるものなのだから。
剽窃?
そのように編集して作成した短歌は誰の者か?
短歌の要素はありふれた日常語であり、短歌のオリジナリティーがそれらありふれた日常語の並び順にのみあるのだとすれば、編集短歌は新たな短歌として認められるのではないか? そもそも言葉自体に著作権はないのだから。とこれはまた別の話で。
とはいえ、私はそのように生成した短歌を「自分の作品」として発表するつもりも、発表する場もない。それに俳句や短歌は文字数が限らているから、類想や、ときとして全く同型の俳句や短歌が出来てしまうことも多々あるだろう。わたしはそういう盗作疑惑を追及される立場にはないから気楽なもので、ただ、前後の言葉の脈絡の脆さを体感するためだけに、こんな遊びをしたりするのである。
寺山修司さんの見開き短歌生成
方法
寺山修司さんの『寺山修司青春歌集』の見開きにある短歌の要素を抜きだして、別の短歌を作る。
理由
短歌の練習のため。一首の短歌を構築するかに見える言葉の脈絡を離れ、かつ、意味は後付けされるという事実を体感するため。
実作
桃入れし墓穴ふかく小さな火復活祭の電車に揺らる(6-7)
言い負けて愛欲しおり小市民古きベレーにわが無名の詩(8-9)
外套を怖るるわれかびしょ濡れの壁に足向け家継ぐべしや(12-13)
わが野性ころげて芽ぐむさむき空人の名知らず愛に渇けば(16-17)
羽蟻とぶ顔いっぱいのさみしさに大地の鳥の影と破片と(22-23)
生命保険証書とひからびし血よ眠れど曇る実現範囲(38-39)
欲望は嘔吐せしものアフリカはにんじんばかり貯えはせず(40-41)
死ぬならば真夏の波止場裏町の小麦畑にむしろ恥じつつ(44-45)
さかさまに漬樽唸る日あたりに音たてて燃ゆるわれの老年(48-49)
濁流にあこがれやまぬ鴉生るイワンも神を生贄として(50-51)
乾葡萄かたみの記憶新しく告白以前の言葉を燃やす(54-55)
晩夏光ピアノの鍵を青空へ卓の金魚は噛み殺されぬ(58-59)
息あらくさかさに薔薇を失いし廊下にさむく影うかびおり(64-65)
泳ぐ蛇入口ふかく見出さむ病めばある日をわれのバリトン(68-69)
剃刀を女の臀にあてながらしずかにほぐれ花ひらかざり(70-71)
木曜日写真の嘴を暗黒の顕微鏡下にわれも羽ばたく(72-73)
眼帯に新中国と月見草十七歳の病むグライダー(76-77)
萌えながら前のセメントはらみつつ睡蓮は音あなたは農奴(78-79)
きりなく楽しいので、ここまで。
おわりに
読む側からすれば、歌留多でもAIでもおもしろい短歌であれば大歓迎であるが、
詠む側からすれば、そういう手仕事のみで生成しても全くおもしろくはない。
無論、実作においても要素を短歌モジュールに沿うように並べるやり方は一般的だと思う。それでも、たとえば今日の練習のようにパズルのようにこしらえたところで、それを作った時点では、こちらに何も跳ね返ってこないからだ。それを読んだ時に、何等かの変動が生じることは間違いないところではあるが、それは他人の作った短歌を読んだのと同じであり、自分で作る意義とは別のところにある。
だから、AI生成や、歌留多生成などは、他の人に任せてわたしは、そういう短歌がもたらしてくれた気付き、を手掛かりに、言葉に塗れて作っていこうと思うのである。