望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

依他起性 ―フンボルト(という博物学者という点P)の冒険

はじめに

フンボルトの冒険 自然という〈生命の網〉の発明』アンドレア・ウルフ著 鍛腹多惠子訳 NHK出版

www.nhk-book.co.jp

古来より、博物学者は蒐集する。整理・分類の情熱は、分けへだてるためではなく、共通点を見出すためである。なぜならば、この蒐集欲は、世界の全ては相関関係にあるという真実の喜びに突き動かされているからだ。特定のジャンルの品々を全て、自らの手中に収めたいという我欲に憑りつかれたコレクターとは、動機が異なる。博物学者は、隔たりを埋めるピースを求めるのであり、それは鉱物でも植物でも温度でも構わない。

だから、博物学者は越境者である。国境も自然界の障壁も踏み越え、過去と未来とを「事実に基づく卓越した想像力」によって行き来する。

フンボルトという人は、巨人だった。彼の足跡も、彼の思想も、彼の人柄も。あらゆる事物をつなぎ合わせること。移動し続け、人と出会い、人と出会わせ、次第に失われつつあった「全体性」を主張し続けた。

数々のファンを残し、現代の自然観」の礎を築いた。神を持ち出すことなく、この世界の広がりを説明した。その説明は、誰にでもわかりやすく、飽きさせず、美しかった。

目を閉じて、耳を澄ますがいい。

そうすれば、かすかな物音から大音響まで、もっとも単純な音から絶妙な和音まで、すさまじく共謀な叫びから、穏やかに道程を説く言葉まで、

自然がその存在、力、生命、関係性を告げる声が聞こえてくるだろう、

だから限りなく豊かな視覚の世界を奪われた人でも、

聴覚の世界にあふれんばかりの生命の息吹を感じ取ることができるのだ。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

このゲーテの言葉は、わたしに別の興奮を与えた。世界の視覚偏重を是正すること。俳句を視覚の呪縛から解き放つ旗印として、この言葉を銘記しておきたいと感じた。

1796年にプロイセンで生まれ、1859年に死んだ。享年89。

フンボルトが示した真実は、「生命の網」と表記されているが、「生命」という言葉に注意しなければならない。フンボルトには、「有機物」と「無機物」がどちらも相関関係という観点から等しい。

自然はまさに全体の反映

フンボルトは言う。機械ならば、部品ごとに分解し再度組み立てることができるが、自然はそうはいかない。自然は有機的な網のように相関している。

この壮大な因果の連鎖がある限り、独立して考えられるものは一つもない

 この「網」とは、いうまでもなく「縁起」である。「網」とは共時性であり、この共時性においては、時間は意味を失う。共時性を認めることは直接性を認めることでもある。世界の全ては直接的に繋がっている。だから、あらゆる間接的な手段は、反自然的である。この意味で、「貨幣」は反自然の際たるものである。多様性を貧しくさせ、疎外を招く。同等なものに「言語」があることはいうまでもない。

 フンボルトは冒険を望み、時代に阻まれながらも、大きな冒険に幾度か行い、そして本を書いた。「コスモス」は売れに売れたそうだ。「コスモス」はその後の科学者の、いや人類のバイブルとなり、そして忘れ去られていった。そこで展開されていた「世界観」は、現在の我々にとっては、あまりにベーシックであり、陳腐だととられることすらあるかもしれない。だが、それは一般論に毒された浅はかな理解といわざるをえない。

ゲーテトーマス・ジェファーソンシモン・ボリバルチャールズ・ダーウィン、ワーズ・ワース、ソロー、コールリッジ、エマーソン、ジョージ・パーキンス、エルンスト・ヘッケル、ジョン・ミューラー、レイチェル・カーソン、ジェームス・ラヴロック。

等温線、磁器赤道、植生帯、気候帯、人為的原因による気候変動、景色と感情との関連。

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フンボルトがいなければ、世界は様相を悪い方向へ変えていただろう。彼は、空海であり、宮沢賢治であり、南方熊楠だ。

徹底的な唯物主義である科学によって、世界を一篇の詩のように表した。自らは動き回る点Pでありながら、その軌道を常に共時的にとらえていたため、点は面であり空間となった。フンボルトは遍在する。詩が遍在しているように。