望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

「写真」を「俳句」に置き換えて読む ――ルイジ・ギッリ『写真講義』を読んで

はじめに

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捨てられない絵葉書のような、密やかなイメージを撮りつづけた写真家ルイジ・ギッリ(1943-1992)。その何気ない一枚の背後には、イメージに捉われ、イメージを通して思考する理論家ギッリがいる。自らの撮影技術を丁寧に示しながら、写真の魅力を熱く静かに語りかける。イタリア写真界の無名の巨匠がのこした最後の授業。

 

彼の写真がたいへんに好きだ。『モランディーのアトリエ』という写真集がある、というだけで、興奮する。

わたしは写真を撮らないが、世界の詩に触れたいと願っており、そのためには自他の巻き込まれによる境界の曖昧化が不可欠だと思っている。その最も先鋭的な取り組みは私にとっては「俳句」だ。

 俳句は言葉による表現だが、それはひじょうに視覚的なものにもなりうる。

(認知に関して、「知覚」と「認識」とではどちらがより直接的なのか、についてはまた別の話としたい)

 ルイギ・ギッリさんの「写真理論」の「写真」はほぼ、「俳句」に置き換えても有効だということが、今回確認できた。もちろんそれは、カメラの「技術論」ではなく、「対象への姿勢」といった部分に集中するのであるが、「視覚」にとどまらない「存在」論に肉薄する内実をもっている。

写真=俳句

もし写真で身を立てるなら、すべてのジャンルから成るものとして写真をもう一度創り出す必要がある。(p15)

 子規さんは俳句は文学であり文学のあらゆる分野が俳句で可能だと「俳句=文学」を提唱し、そこから碧梧桐さんらの「新傾向」が起こった。虚子さんは子規さんの写生を先鋭化、徹底化させ「俳句は俳句である」といい、そこから秋櫻子さんらの「新興俳句」が起こった。第二芸術論などもかまびすしく、俳句が絵画に学ぶことの是非(つまり、俳句は絵画に劣っているとの証左だ、などの主張)など、今となっては、いや、わたしのような門外漢にも、こうしたどうでもよい論争があるということは知っている。

 素人とは、そのジャンルのもつイメージに似せようとし、似ることを喜び、達成感を得るもののことである。だがそのジャンルを担おうという者は、そのイメージ自体を疑いいたずらにその射程を狭めることなく深さと豊かさ、広さを求めて、それをもう一度創り出そうとすると思う。

 俳句教室では、イメージに似せることを指導し、自らの作品としてはそのジャンルのイメージを破壊していくという、一見、ダブルスタンダードとも思われる態度は、必要不可欠だ。

個性・写生

 写真家はまるで自分の商標のような独自の世界観があり、彼の美学のなかで世界を変形させ復元し、外部世界にそれを刻み付けていました。(p17)

「写生」は「自然」を意図的に変型しないし、ありもしないモノを付け加えたりもしない。ただ、間引き、間引いたことによって生じたはずの空隙を埋めずに、無造作にくっつけるのみである。

 わたしはそうでない意図があると信じていましたし、今でも信じています。それは世界と関わるひとつの方法として写真について考えるということです。そこには撮影者のしるし、つまりその人個人の物語やその人の存在物との関係が色濃く反映されます。(p18)

カメラは透明ではない。それは、写生文に関するブログ等で書いた通りである。表現とは距離感の表現以外にはありえない。そして、存在するものは必ず互いに相関するからである。

しかし、錬金術にも似た繊細な作業を通して、私たちの内面――私の写真家・人間としての内面――と私たちの外で生き、私たちがいなくとも存在し、撮影した後も存在し続ける外的な存在物との均衡点を探し当てる方向に向かわねばなりません。(P18)

 幾度も引用している熊谷守一さんの

景色がありましょう。景色の中に生きもの、例えば牛でも何でも描いてあるとするのです。それが絵では何時でもそこにいるでしょう。実際のものは、自然はそこにいないでしょう。その事の描けている絵と描けていない絵とあると思います。

(『別冊太陽 熊谷守一』 平凡社 p.39 ※『心』(平凡社)1955.6より抜粋)

 の認識が共有されている。

わたしは自然に内包されつつ、内包されたあらゆるものとは隔たっていて、相関し、依存しあいながら、孤立している。だから、対象をリスペクトする。対象は作者が勝手に蹂躙してよいものでも、改変しうるものでもない。そのような作者本意に歪められた自然はもはや自然とは似ても似つかぬ「詩」からは遠い我楽多にすぎないだろう。では、その均衡点とはどのようなものとして求められるのか?

私たちの内面と外部世界との不可思議で神秘的な均衡を探し当てましょう。(P18)

それを探り当てるべき場所は、「皮膚」であり、チューニングされた「皮膚」消失の感度による疑似的な巻き込まれの表層にある。

いくつかのことを精確に調整すると、ある特定の風景―環境の前に身を置くようになり、私たちの経験、文化、世界の見方に何かプラスαが加わるようになります。つまり、自分のことを少しばかり忘れてしまうようになります。自分を忘れるというのは、単なる複製者として身を置くのとはまったく違います。(P18)

「写生」批判のほとんどすべては、「写生」を「単なる複製」と捉えるところに発している。また、ここでいうプラスαとは、マイナスαといっても全く差し支えないと考える。

写真の魅力は見るべきものとそうでないものとの絶妙なバランスを見つけることでもあります。写真は現実のコピーであるべきはありません。(…)現実のなかにどのように神秘の場所があるか、測り知れない場所があるかを見せる方が私はいいと思います。(PP182ー183)

そして「ある特定の風景」とは、「悟り」の風景に酷似している。

イメージ

決まりごとや、前もって細かく決められた見取り図を持たずに出発し、型に嵌まらない柔軟な方法で、世界に向かうということです。革新的な仕方でイメージに近づき、イメージと関係を築くには、このような柔軟性が必要だと思います。(P18)

ルイジ・ギッリさんはイメージから始める。そのイメージは対象としての自然へのリスペクトの姿勢と、自らの経験などの全てとの均衡がもたら風景である。そのイメージは、わたしが「純粋空想」と呼ぶモノに近似する。「純粋空想」とは「存在」にすら囚われないイメージだが、それを空想することは、通常は不可能である。なぜなら人はイメージを五感に把捉可能なモノによってしか対象化しえない。それはイデアのようだが、なにかの原型というわけではなく、もっと多様で雑多なものなのである。そういうイメージになるべくそのまま迫り、なるべく削ったり歪めたりせず表現しようとする柔軟性こそが重要なのだ。

映画、写真、絵画でも「デジャ・ヴュ」の感覚、つまりすでに視たことが話題になります。それ自体、軽視されるべきものではなくて、むしろ集合的無意識との接点、私たちの日常に不可避的に現れる他者の無意識との接点を呼び起こします。(P46)

 イメージの伝達は、必ず他者の経験に依存する。作品が陳腐となるか、理解不能となるか。それはこの他者の「デジャ・ヴュ」の内容にかかっている。俳句における季語とは、集合的無意識への接点として有意だがそれとて、学習によらねば解読不能のコードでしかないのである。イメージに寄り掛かりつつイメージを革新すること。作品を作る立場にあるものは、常に、自分がどこで、どのような陳腐なイメージに縋っているのかを自覚し、それを更新していくよう心掛けなければならない。

見たこともないセンセーショナルな創作をするより、記憶やすでに書かれた歴史、そして人々のイメージ記憶に働きかけながら、驚きを喚起しようとしたのです。(P176)

陳腐なイメージに寄り掛かるのではなく、鑑賞者の心に入り込むための突破口として利用する。そのためには、イメージの分析と再構築作業が重要である。そうした作業において当初のイメージがどのていど汚損するかも見極めなければならない。

 無季自由律によって、陳腐なイメージに寄り掛かっただけの作品を提示されても、全くつまらない。求められるべきは形式の改革ではなくイメージの革新なのだから。

あくまで私は現実のなかにフォトモンタージュを探し求めました。すると現実は巨大なフォトモンタージュになりました。現実世界ではさまざまな物が複雑な関係性のなかで重なり合い、意表を突くメカニズムを再び提示し、古典的なフォトモンタージュの技術と実践を思い起こさせます。(P60)

シュールレアリスムは、その意味では邪道である。それはあまりに無技巧的か、そうでなければ技巧的すぎるからだ。夢をそのまま表明することも、解剖台の上でミシンとこうもり傘が偶然出会ったように美しい、というフィクションにも、興ざめである。重要なのは「無意識」などではなく、「偶然出会った」の方なのである。「ように」などはいらない。「事実が小説よりも奇」でありうるのは、それが併置される因果関係のない事物が併置される瞬間の連続だからである。詩は因果では表せない。ルイジ・ギッリさんはそれをフォトモンタージュと呼んだが、俳句においても重要な姿勢である。

モード

単純に心のスイッチをONにすること、眼差しを活性化させること、現実の物や要素に別の意味を与えながらこれまで見えていなかったものやことを発見すること、これまでと違う方法で注視すること、こうしたことが重要なのです。(P152)

ジャンルが異っていても共通する感性がある。五感を活性化させること。自らが画家なのか、音楽家なのか、詩人なのかというジャンルをまず忘れて、といっても、職業的に訓練された技師の五感はすでにそれぞれのジャンルに最適化されていることだろうが、それだからこそ、そうした限定を解除してイメージを感じ取ることが重要だ。脳は、間引くためにあると認識し、そうした脳の働きを迂回させる回路を開くこと。そういう意識が必要である。

おわりに

技術は自由になるために使うものであって、束縛されるために使うのではありません。(P173)

有季定型などの形式とは、そのようなものだと思う。