望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

新傾向といふ新しさの類似性 ―『植物祭』前川佐美雄さんから野村日魚子さんそして河東碧梧桐さん

はじめに

 似ていることは悪いことではない。似てくることをおもしろいと思う。似ていると感じる私の感覚が固着しているのかもしれないし、定型を脱しようとする試みが普段意識されることのない日本語の天井にぶつかって似通った放物線に収斂してゆくのかもしれない。定型から自由律へ。その試みによってのみ得られる似通った解をいくつか挙げて、それが何を表しているのかを考えるのではなく、ただ楽しみたいのである。

『植物際』

 このブログの直接のきっかけはXで見かけた前川佐美雄さんの『植物際』の短歌だった。その際は、前川さんの特異とも思える感覚を表現した短歌を、おもしろいと感じたのだ。

ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそびに行きたし

床の間に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし

 そこで手元にある『現代短歌全集 第六巻(筑摩書房 2001年11月10日 増補版第一刷』によってこの歌集を読んでみて、その特異な感覚を表す歌はもちろん、それ以上に形式的に、ひじょうにおもしろいと感じるものがあり、今回はそちらをメインに記しておきたいと思った。このおもしろさとは、いわゆる「文体」の類似性についてであった。

新傾向 ―河東碧梧桐さん

 わたしにとって「新傾向」といえば河東碧梧桐さんの「新傾向俳句」が思い浮かぶ。

子規没後、虚子は「ホトトギス」の経営を、碧梧桐は新聞「日本」の俳句欄を担当。やがて新傾向運動を展開し、季題趣味と定型を打ち破った自由なリズムによる俳句を推進した。1906年から3年間の全国行脚で多くの賛同者を得たが、大正期に至って、虚子が俳壇に復帰し、守旧派の立場から激しい攻撃を浴びせた。新傾向の俳句はしだいに衰微していった。 河東碧梧桐 - Wikipedia

特徴的と思うのはこんな句だ。

お前に長い手紙がかけてけふ芙蓉の下草を刈つた

子猫が十二のお前を慕つて涙ぐましい話

我顔死に色したことを誰れも言はなんだ夜の虫の

ミモーザを活けて一日留守にしたベツドの白く

枯草を焼きすててけふの仕事がすんだ

カナリヤの死んだ籠がいつまで日あたる

「屋根越しの空は毒々しい赤さに染められて往った。空はぐるっと我々をとり巻く包囲状態に焦がされているのだ。まるで我々は落城間際の寄手に囲まれているようです。とS君がいう」(『大震災日記 九月一日)

ぶらんこに遠く寄る波の砂に坐つた

 季語定型を離れ、かつ俳句であり続けることを模索し続けた碧梧桐さんは、この後、ルビ俳句によって「かな」と「漢字」という双系性の表記を許す「日本語」の特徴に挑み、その試みは広がりをもたなかったが、やはりいきつくところは「日本語」なのだということを示したのだった。

短歌 ―野村日魚子さん

 わたしは俳句の「自由律」についてはある程度読んだり書いたりしているが、短歌についてはまったく不勉強であり、これから口語短歌の黎明から非定型、自由律といった歌に親しみたいと思っている。そんな中で野村日魚子さんの作品集が「歌集」として出版されたことは大きな事件だったととらえている。

nanarokusha.shop

 野村日魚子さんは、「短歌」と「川柳」を発表しておられ、どちらも従来の感覚とは異なった感じがしてとても好きだ。形式云々ではなく、日本語がアップデートされたもののように感じられ、その感覚は「新傾向」と呼ばれた作品全般に共通していた。

犬よ いくつもある墓碑に書かれている文字のどれ一つとして読めず震えている夜

遠くの人に届くのが手紙 つまりこれがそうなのとてもうれしいでしょう

殺されて死ぬのだけはいや何万もの架空のみずうみとその火事

はずす絆創膏から人んちのシャンプーの匂い歩いて帰る

自由律俳句 ―萩原井泉水さん

 このように書き写してみると井泉水さんの句に連なるものも感じるのだ。碧梧桐さんと袂を分かち、現在のいわゆる「自由律俳句」の手本となっている種田山頭火さんや、尾崎放哉さんの、「呟き」に似た短めの方ではない、前述した河東碧梧桐さんと一緒にやっていたころの「情報量を増やす方向性」の「長い」ヤツとこれらの短歌とは似ている。

 元来「自由律」とは、五・七・五 か五・七・五・七・七かのいずれかを伸ばしたり縮めたりする「非定型」をも離れたものであり、それが出来上がった後で、どちらにルーツを持つのかを特定することは極めて困難だし、鑑賞する上では特定する意味もない。そうして、そのような自由律から始める自由律作家にとって、もはや俳句や短歌は予備知識であって手本にはならない。

 始めて異種格闘技K-1を見たときの新しさは、やがてK-1という格闘技に収束する。それと同じく、自由律はやがて「自由律」というジャンルに収束してしまうのかもしれない。

土の、さうしてわたしのうそさむい鼻になる

木の根の犬石の根の犬月夜のわたしも寝ようとする

富士を向うにして山が組みあつてゐるところの旗

胡桃割て君達と山でたべのこした胡桃

みづうみは日をしづました山

ここに本屋が出来てけふは海の方へ行かう

是が最後の母の顔を忘れさせまいのぞかせる

口語・自由律短歌

短歌を現代の口語によって作ろうとする試みはすでに明治三十年代からあった。その試みは口語を用いながら、定型によってゆこうと「口語定型歌」の形が主であった。大正十一年秋に刊行された西村陽吉、青山霞村、西出朝風の共同編集による『現代口語歌選』はそういう作品を集めたものであった。(中略)

 一方、大正十三年四月に創刊された雑誌『日光』は(中略)石原純が創刊号に「短歌の新形式を論ず」という文章を発表して、自由な用語と五七五七七の音数の制限を破った自由形式の短歌を提唱している。(中略)

 すでに明治四十三年にローマ字による歌集"NAKIWARAI"を出版して石川啄木にも影響を与えた土岐善麿は、常に短歌の新形式に心を傾けた歌人であった。彼は昭和二年、朝日新聞特派員としてジュネーブに出張し(中略)たが、その間、感興が起っても短歌ができなかった。(中略)「僕の制作衝動は伝統短歌の制約の中には湧きあがって来なくなった。ただ何か新しい時代性をもつ事象、事態の刺激に接したとき、それの律動的表現が、僕自身の今日まで習熟し得た短歌といふ様式に、どう作用するか、むしろその作用する過程に感興が集注されて、そこに創作衝動が統一される」と書いている。

 昭和十五年七月になって、当時の歌壇における清新の歌風を感じさせる中堅歌人住人の作品を収めた『新風十人』が出版され、(中略)その中の二人が、すでにこの昭和初期に第一歌集を出版している。前川佐美雄の『植物祭』と、福田栄一の『冬艶曲』である。(前掲書「解題」より)

『植物祭』 ―前川佐美雄さん

昭和五年、第一歌集『植物際』刊行。青春の自虐と狂気を大胆に表現したこの歌集のモダニズムは、戦後の前衛短歌にも影響を与えた。(前掲書「解題」より)

前川さんの歌は文語字余り破調定型とでもいうべき形式のものが好きだ。

庭の上に椅子四五脚が散らばされありそのひとつに坐り春の空見る

壁の鏡にカーテンが三部ほどうつりゐる位置で本よみてゐる

耳たぶがけもののやうに思へきてどうしやうもない悲しさにゐる

さんぼんの足があつたらどんなふうに歩くものかといつも思ふなり

五月の野からかへりてわれ留守のわが家を見てるまつたく留守なり

遠いところでわれを褒めてる美しいけものらがあり昼寝をさせる

カンガルの大好きな少女が今日も来てカンガルは如何如何かと聞く

植物の感じがひじやうに白いから何もおもはず眠らうとする

君はまうカンガルなんぞを見て遊ぶ年齢でもないよと言ひ聞かせゐる

例によって、いわゆる作家論には興味はなく、抜粋した短歌から感じる感じが、今回のブログで抜粋した他の俳句・短歌と響き合うことを楽しめれば、それでいい。

おわりに

 三句なり五句なりのまとまりを意識しつつ、それぞれの音数に制限をうけずして、かつ調べを支配することで紡がれる。散文とは一線を画する点は、指示詞の多様もしくは省略、独特な助詞の選択および「再帰的」な構成の多用などによって、従来の日本語の配列にとらわれることなく、愚直に詩にまい進する。

 わたしは、口語も文語も定型も非定型も自由律も全て、おもしろい作品に触れられればそれで豊かになれると思うので、これからもいろいろな詩にまみれていきたいと思っている。