望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

ブラックリスト ファイナルシーズン ―叙事詩としてのレイモンド・レディントン

はじめに

 ブラックリストについては、一度書いたことがある。

 

mochizuki.hatenablog.jp

 そして先日、ファイナルシーズンを全て見終えた。このファイナルシーズンは、ほとんど「レイモンド・レディントン」という名のスピンオフ作品と言ってよいものだと思う。最高傑作である。途中に用意された数々の予定調和的結末を反故にし続けて、このようなラストを実現させた制作陣に、惜しみない賞賛を感謝を捧げたい。

危惧していたこと

 このファイナルシーズンの放送前の宣伝では、かつてレディントンにブラックリストの犯罪者としてFBIに売られた犯罪者たちを束ね、レディントンに復讐せんとする男に追い詰められるレディントン。という紹介のされかたをしていた。これは、ブラックリストというタイトルにこだわった構成といえるが、すでに、レディントンという人物は、そのような取った取られたのやり取りに躍起になることに時間を費やすことに価値を見出せなくなっていた。言ってしまえば、「住んでいる世界が違」ってきていたのである。
 結果、このエピソードはかなり序盤で、あっさりと敵を倒して終えてしまう。(とはいえ、レディントンがもっとも大切に思っている「繋がり」が揺らいだり、危機に陥ったりしたり、面白いものになっていた。このエピソードがあったことで、「繋がり」を大切だと思っているレディントン像が改めて印象付けられたことは確かだ。)
 この時、ブラックリストは変質したのだと感じた。

割愛

 その後の展開については、煩雑なので書かないが、どの話にもレディントンの人物像を印象深くするエピソードが盛り込まれる、いわばヒューマンドラマと化していく。彼は自らの手で、これまでに築き上げてきた「見えない帝国」をブラックリストとして可視化し、それらを最大限の配慮をもって解体していく。また、これまでに手に入れた数々の美術品を、それをもつにふさわしい人々に配布していく。
 それは、過去の犯罪を悔いる贖罪ではない。
 彼は自らの身体の衰えを実感し、死期を悟りながら、なお続いていかねばならないこの世界の未来が、よりよいものになるよう、いわば投資をしていたのだった。そして「投資」という方法はレディントンのいつもの手法なのである。ただ、その投資が、奪うためではなく、与えるために変化しただけである。
 この変化の要因は、アグネスの存在にある。彼女によって未来が具体的なものになり、「どうにもならないことなら、むしろたいしたことではない」としていた「死」の意味を少しだけ変質させたのだ。

中上健次の長編小説のように

 そしてラスト二話をつかって、レディントンの最期まで、が語られる。
 語られる、と書いたのは、この二話がほとんど映画のように制作されているからである。無論、これまでの人間関係やエピソードが、この最終の二話をより豊かにするし、知識としても必要ではあるが、もはやこれは「ブラックリスト」ではなく「レイモンド・レディントン」というスピンオフに他ならない。というより、このラストシーズンそのものが、そうなのである。

 以下は、最終回を見終えて直ぐの感想文である。
 最後に数行の空白を挟んで、彼の最期のシーンの画像を貼りつけてある。見たくない方はお気をつけ願いたい。

 

 それは幻影だった。

 彼はそこにその幻影がその姿で顕れたことに感謝した。その姿でその幻影が顕れることを、彼は想像したことがあった。だが、それは想像でしかなく、しかも、あまりにもあどけない範疇の想像でしかなかった。だから彼は、その姿をとって死が顕れてくれたことに、驚嘆と、賛美と、正しさとを感じた。

 それは狂った雄牛の姿で、その姿であることを怒っていた。
 そのような怒りを、彼は嫌になるほど知っていた。だが、知っていた怒りは、すでに彼自身のものではなくなっていた。所有物を全て手放し、大切な人々への最後の挨拶を済ませる過程で、彼は彼自身の怒りも手放していた。だが怒りとは、そのようなものではないはずだった。彼自身が手放した怒りが、今、彼の目の前にあった。それはかつての彼の憧れだった英雄を殺した雄牛の姿をしていた。

 彼はその怒りが死をもたらすことに感謝した。憧れの英雄と同じ死に方ができるという喜びもあった。自分のように生きてきて、まさか、そのような死を得られるなどと思ってもいなかったからだ。
 どのように生きるか、を、どのように生きたか、に変える瞬間に、自分がいかに自由でいられるか、それだけが重要だったし、今、彼は最高に自由だった。

おわりに

 ブラックリストはエリザベスの話として始まり、レディントンの半生期として幕を閉じた。
 ブラックリストとは何だったのか、レディントンとは誰だったのかは語られないまま、十分に丁寧に、かつ断ち切られたこの結末と、その死にざまがあってこそ、このシリーズは叙事詩となったといえる。

 因みに、わたしはレディントン=「エリザベス」の母 説をとっている。この検証はまたの機会に。

(以下に画像あり・閲覧注意)