望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

長編小説としての ブレイキング・バッド と ベター・コール・ソール 

はじめに

見ていてつらくなるほど素晴らしかった、ブレイキング・バッド

見ていてつらくなるほど素晴らしい ベター・コール・ソール

 普段みている海外ドラマとは一線を画す(と感じさせる)このドラマ。絵も音も、一口でいえば「無骨」。そして「丁寧」。

 何よりも「一話完結」的要素を、当初からまったく意識しないストーリー構成。

 私は、このドラマを見ていて、初めて「長編小説」とはどんなものか? を知りえたような気がした。

世界の変化

 この話はざっくりといえば「いい人が悪い人になる話」だ。そしてそのきっかけは、必要に迫られての、些細なめぐり合わせである。

 彼らは常に、煩悶と後悔を繰り返す。目先の問題にそのつど、自らのスキルで対処していくうち、抗いようのない「別の倫理」に巻き込まれていってしまう。

 めぐり合わせとは、「別の価値観、倫理観」に飛び込まざるを得ないことだ。それは、これまでも常に隣り合っていながら、異なる次元ででもあるかのように貫入することなく、すみ分けてきた「異世界」であった。

 明確に、第何話のどの事件をきっかけに、そちらの次元へずれ込んでいったのかを、指摘することはできない。そのつど、一回限りの善良なる選択の繰り返しの結果、「薫習」されていくかのように、そちらの世界に移住してしまうのである。

 最終話から振り返れば、ターニングポイントとなる事件を指摘することが可能かもしれない。だが、そのような視点をこの世の誰が持ちうるだろう? そのような視点を前提した話は、二重に嘘をついているのである。

シンギュラリティー

 長編小説とは、そのような「一回限りの」必然的選択の繰り返しによる、世界の変化を記すものだと、思うのである。

 その際、ストーリーの「要約」や、「あらすじ」を理解しても、まったく無意味だ。これは長編、短編をとわず、小説と物語との違いを表す特徴である。つまり、物語という「レギュラー」なもの組み合わせとは違い、小説は「シンギュラー」なのである。唯一性を一般化することに意味はなく、それは単に「歴史」としてそのまま記されるよりほかないのである。

 教訓や、構造などを取り出したければ勝手に取り出せばいい。「小説性」は、そういう操作が取りこぼしたものなのだから。

ではドラマが長編小説的である条件とは?

一話完結ではない

 存在は常に変化し続ける関係性の総体である。何かがどこから始まってどこで終わる、などと区切りのつけられるものではない。 

 刑事モノ、医療モノなど、「あるケース」の発生から解決(逮捕、死、退院)によって区切るものを「一話完結」と呼ぶ。これは「群像短編」の集積である。構造的には同型の「繰り返し」なので、いつまででも続けることが可能だ。その意味で「サザエさん」なども、ここに分類される。

 ほとんどの海外ドラマが「一話完結」なのは、途中からで見やすいこと。一話の中で盛り上がりをつけやすいこと。「水戸黄門」的なのである。

 なのでたいてい、途中で「新味さ」を求められて、レギュラーの登場人物の背景をいじり始めたり、シリーズを通してその背景に迫っていくサブエピソードを平行させるのだが、長編小説的であるためには、その「サブエピソード」こそをメインに据えるべきなのである。

人物相関図が変化すること

 基本的な性格や行動傾向は変わらない。けれども力関係は常に変動する。現状維持のためだけに、多大なる犠牲を払う場合もある。その場合、他との関係性は大きく変化する。そのあたりを上手に取り入れようとしているのが「ブラックリスト」だったり、「パーソン・オブ・インタレスト」だったりしたように思う。(この二つは、一話完結タイプ)

 何か事があって「友情」や「信頼」や「裏切り」といったクリアな関係性が変わる、などということは、現実生活においてはありえない。必ず過去を引きずるし、時々刻々と相手の印象は変わっている。

前提のスクラップアンドビルド

 ある関係性を前提として、その変化を描けるという約束事の上で成り立つのが、「物語」であり、この約束事こそ、大多数の「小説」が陥っている欠点でもある。

 小説とは「約束事を作りながら壊し、壊しながら作る過程の部分」に他ならない。それこそが「存在」の実相である。だから、このことに実直に向き合おうとするのなら、「長編小説」であるよりほか、ないはずだ。たいていの小説が、前提を覆したところで終わってしまう。本当はそれによって別の前提が生じ、それもまた壊れていくという繰り返しがあるのだが、キリのよいところでエンドマークをつけてしまう。

未完であること

 全ての小説は「未完」である。それは時系列の途中である、という意味よりも、「全存在の部分でしかありえない」という意味で「未完」であるよりほかない、ということなのだ。これは同時に、全ての小説は長編小説のチャプターである、ということでもある。

 われわれは、長編小説を生きることしかできない。だから、それを記述するには、長編小説を書くしかないのだ。これを適当なところで、切り取って「完」とするから、中途半端なものしかできなくなる。もっとも、存在とはそういう完璧に中途半端なモノであるしかないわけだが。

倫理の破壊

 存在について書くことは、存在について批評をすることだ。それは現在の倫理への批評であるよりほかなく、現状肯定はありえない。小説は批評であらねばならない。

おわりに

 ブレイキング・バッドも、ベター・コール・ソールも、とても長い。シーズン10以上続いているドラマも多いが、それらは一話完結だから、全て通してみなくても、楽しさは変わらない。だが、そうはいかないのが長編小説だ。

 もっとも、「小説」とは、初めから最後まできちんと読了する必要のない形式をもっていることも事実である。長編小説であることと物語であることとは矛盾しない。なぜならば、小説とは全てが未完だからだ。多頭であり無頭であること。それが小説である。

  たとえば、一人の男の物語として読もうとするのなら、物語のように初めから最後まで読み通さねばならない。が、それによって長編小説を体験できるタイプのストーリーがあるのだ。終始感じる居心地の悪さ。ヒリヒリとする嘔吐感。この感覚こそが、「長編小説」と呼ばれるにふさわしい。

 よい長編小説とは、物語のようにも読める。これも長編小説である要件の一つであるかもしれない。