はじめに
叙景短歌とは、わたしが勝手に考えている「短歌」のスタイルだ。
今回のブログでは、この「叙景短歌」と「ただごと歌」との相違点の検討したい。テキストとなるのは、現代、「ただごと歌」を意識的に作り続けている奥村晃作の短歌だ。さらに、この「ただごと歌」の立場は「写生句」の立場によく似ているという点で、高野素十の俳句も参考としたい。
とはいえ、それぞれのスタイルを「定義」や「要件」において事細かに計量する手間をわたしはとらない。そういったことは短歌や短歌評論を生業とする方にお任せする。わたしは短歌を楽しむものとして、わたしが惹かれている「叙景短歌」のスタイルを模索したいがために、このような検討を行っているにすぎない。そこでは、短歌作品が全てだからだ。
なお、奥村晃作の短歌は全てxに掲載されているものを使用し、嶋稟太郎の短歌はわたしが『羽と風鈴』から抜き書きしたものを使用している。また、高野素十の句は、「素十全句集 全四巻』の「秋」(永田書房 昭和54年)から採った。
相違点を見極める計測器とするのは、柄谷行人の「探求Ⅱ」(講談社学術文庫 1994)である。
テクスト(短歌)を並置して鑑賞する
奥村晃作の短歌を大雑把ではあるがカテゴリー分けし、そのカテゴリーに共通しそうな嶋稟太郎の短歌を挿入することで、違和を抽出できないかを試みる。
こだわり・行動
ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く(奥村晃作『鴇色の足』)
奥村晃作の代表歌だ。この短歌を、例えばボールペンはゼブラに限る、と思っている人は共感できないはずだが、そもそもこういったレベルでの共感をこの短歌は求めていない。また、ミツビシを変数にして、単にこだわりの強い人の話とすると、この短歌は全くつまらないものとなる。「ボールペン」、「ミツビシ」、「文具店に行く」、を選択しなければ成り立たない絶妙さが、単に「作者のつよいこだわり」でしかないように表現されている点が素晴らしいのだ。
午すぎの静かな雨を通り抜け東急ストアでみかんを選ぶ(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
嶋のこの短歌では「みかん」へのこだわりは直接的には示されていないし、すべてが穏やかな中で粛々と進んでいる。しかし、雨の中みかんを選びに東急ストアに行くからには、そうしたい事情があるのだ。それでも、こうした自らの行為や思いも「叙景」化するのである。
放置せしわが自転車を請け出しぬ四千円を区に支払って(奥村晃作『造りの強い傘』)
わざわざ「四千円を区に支払って」と書くことで感情を表現する歌だ。奥村には、はっきりと「こ思う」と書いた歌も多いが、自分の不注意でありながら、恣意的な撤去への苛立ちもあり、四千円が惜しいという気持ちと、仕方ないという気持ちとがないまぜとなっているのだろうということが十分に伝わる。ただこれは、自らが行ったことという意味で「行動」のカテゴリーに入れてはあるが、単に「報告」としてもよいラインにある。
予定より早く会議を終わらせて大きな部屋にわたしは残る(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
部屋に残りたい理由はある。だがそれを言わない。「会議を終わらせて」とあるが、そのように仕向けることができる力をもっているのである。そして思惑通り、一人で部屋に残ることに成功する。このあと何があるのかは、描かれない。そもそもこの短歌ではそれを射程にいれていない。「わたしは残る」それがこの歌の全てなのである。
観察・気付き・疑似写生
このカテゴリーに「ただごと歌」の真骨頂があるとわたしは思う。
次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く(奥村晃作『三齢幼虫』)
わざわざ言語化したことによって、この「ただごと」が「ただごと」ではなくなる。
円柱が人の流れを分けている南北線の地下のホームは)嶋稟太郎『羽と風鈴』)
円柱を主語にすることで、混雑している南北線の地下ホームに奇妙な静寂がただよう。円柱が、この空間を支えている柱であるという有用性すらはく奪されている。だが非現実感はなく、たとえば、常にワイヤレスイヤホンで音楽を聴いている人が、雑踏の触感をもカットして、たんに視覚情報としてのみ受像している様子がリアルに感じられる。
だがしかし、言語化が重要だとしても、これが「短歌」である意味はどこにあるのか? と問われることが、「ただごと歌」の宿命なのではないか、と推測される。
例えば「秋の日の発つも戻る日本橋」というところから、俳句的なものでも表現できるのではないのか。たまたま、作者が歌人だったから、短歌に仕立てた。というだけではやはり弱さがあるようにも思う。しかし、奥村のこの短歌は、圧倒的に判りやすく、改めて意識化されるという、虚を突かれた感じがある。それは相田みつをに通ずるところがある。
夕立の終わりは近く二輪車の音は二輪の線を引きつつ(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
聴覚によ気づき。アスファルトに溜まった雨水をはじいて走る二輪車がシューという音を引いて走っていく感覚。エンジン音よりもそちらの音のほうが、部屋に響く感覚を思い起こさせてくれる。
この気づきは、高野素十の俳句を思わせる。
低く垂れその上に垂れ萩の花(高野素十)
短歌の文字数があるので、花の色(黄)、花の様子(固まって咲く)そして花の向き(同じ方)、を示しなおかつ、「~ね」という呼びかけ、という内容を盛り込める。だが、方法論としては「写生」ということになると思う。
すずらんを模した灯りがまっすぐに東口から続いて見える(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
「すずらんを模した灯り」という比喩が印象的な短歌。人の気配のしない夜の商店街の入り口に、立っているかのような臨場感がある。それは「見える」という現在形によるものだろう。「叙景短歌」では「~る」といった現在形の語尾が多用される。
日本中どこも同じか信号の人型の青が点滅を始む(奥村晃作『八十一の春』)
「日本中どこも同じか」という弱い気づき、によってこの短歌は「ただごと歌」となっていると思うが、同時に「写生」に「一般化」をよびこんでしまっているのではないだろうか。点滅する歩行者用信号を見て、「日本中どこも同じか」と思ったのは事実だろう。だが、そのように思うことによって、「今ここ」が消去されるように思う。わたしは、その方法を採らない。
七車線ほどの青空かたわらに美酒爛漫の看板広告(嶋稟太郎『羽と風鈴』
これはどこかに実際にある風景であり、かつ、そこにしかない風景だ。どことも代替えのきかない、一回性の「今ここ」なのである。わたしはここ風景を見たことがない。だがそれを想像することはたやすい。美酒爛漫の看板広告は全国にあるだろう。だが、それらが同じであるかどうかは問題ではなく、今ここにあるこの看板を含む景色の固有性こそを歌いたいのである。
ピアニストピアノ弾きつつ納得のゆく笑みを見すピアノに向きて(奥村晃作『八十の夏』)
赤い鳥の「写生」の姿勢がここにはある。
先に紹介した「自動車の運転をしている人がみんな前を向いている」という歌に似ているが、「運転をしている人」が「統計的な結論」だとするなら、これは個々の事実を消去した「データ」を述べたものといえるが、この「ピアニストの歌」は間違いなく、「今ここ」の描写だと思う。しかし、「納得のいく」は作者の主観であって写生の言葉ではない。
※ただし、「ただごと歌」は「写生」による、などという定義はないだろう。「写生」にこだわっているのは、あくまでもこのブログを書いているわたしなのである。
厚紙を二つに折った縦長の春のメニューに日が差していた(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
観察力だ。だが、テーブルに置かれたメニューを誰がこのように観察し、それを短歌にしようと考えるだろう。メニューに日が差していた。だから注意を引いたのだ。そこから短歌を構成する場合、店の種類や選んだ料理、その店に入った理由などをもってくるのが一般的だとわたしは思う。だが、叙景短歌では、、最初に目に入った「メニュー」で短歌を仕立てる。それで短歌として成立するか否かと、問われることが「叙景短歌」の宿命かもしれない。だが、この短歌には単なる「気付き」とは違う、何かがあるのだ。「春のメニュー」という風に括ったときの詩情など、影響しているのかもしれないが、まだ不確定だ。
発見・推量・写生
これ以上平たくなれぬ吸殻が駅の階段になほ踏まれをり(奥村晃作『鴇色の足』)
「これ以上平たくなれぬ」という比喩的表現に、「なほ」という駄目押しが、徹底的に踏みつけられている吸殻を思い描かせてくれる。しかし、この吸殻を見たのは一瞬だったはずで、もしかしたら自分も吸殻を踏んでいったのかもしれないのだが、この短歌にはやはり「今ここ」の感じは消されている。フラットな「現在形」だ。吸殻のクローズアップの映像だけが思い描かれることから、なぜだか「現実味が」はく奪されている気がする。いつかどこかの吸殻。という感覚。一般化するということは、ある意味で抽象化されるということになる。ここに失われるのは「一回性」であり「単独性」なのだ。
おもむろに風吹く午後の地の上を擦りながら飛ぶ包装容器(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
こちらも、情景としては包装容器がガリガリなりザリザリなりと路面を滑っていく様子が描写されているのだが、ここには確かに、これを見ている目が感じられ、これは消去されていない。「おもむろに」という初句は重要なのではないかと思う。こう考えると、奥村の「吸殻」の「これ以上平たくなれぬ吸殻」という比喩的描写が、ステレオタイプだったことにより、かえって臨場感を失ったと考えることができるのかもしれない。(短歌に臨場感を求めていた場合は、である)
ひじょうに短歌らしい短歌と感じる。「ただごと歌」性は、おそらく、そのときの素直な感じをそのまま写した、という点にあるのだろうと思う。単純な感情として表せない、ないまぜとなった感じ方を表現するためには、かえって感情の名前を使うことができない。浅利を擬人化するぎりぎりのところに踏みとどまって、この複雑な感情を醸すという凄さがある。
数秒で消えるひかりが伏せ置いたスマートフォンの角から漏れる(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
この歌の「ひかり」にさまざまなものを重ねてよむのもいい。しかしあくまでも歌は叙景に徹している。
報告
デパートで妻が買い来し鰻重をおいしく食べて満腹となる(奥村晃作 『8月25日 X)
日常に感じることや考えること、あらゆることが、短歌形式におさまってしまう。全身小説家ならぬ全身歌人 の域に達したとき、Xのbotにあった「偶然短歌」に、表面上は近似してくる。無論、韻律、漢字と仮名のバランスなどの的確な調整は、当然のごとくなされているのであるが、それがあまりに自然に行われているため、技巧に気づくことすら難しい。
しばらくは地上を走る電車から桜並木のある街を見た(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
わたしが衝撃を受けて「叙景短歌」を考えた一首。ここには数々の限定が含まれている。(しばらくは+地上を走る)電車→「桜並木のある街」「を見た」重要なのは、(しばらくは+地上を走る)と「桜並木」の呼応ではないかと考えている。視点は高く、「見た」は「見下ろしていた」に近い印象がある。桜は「並木」であること。それはすぐに地下に入って見えなくなることが予測できる点。こういった周到な限定によって、この散文のように見える文が「叙景短歌」として成立しているのではないか、と考え中である。
拷問などの刑具三千点を展示するローテンブルクの「中世犯罪博物館」(奥村晃作『八十一の春』)
こちらは十・七・五・八・十四(八+六)で、完全な破調だ。このような歌を取り上げるのはわたしの手に余る。歌の内容や、連作的な意味合い、このように一首にしたかった意図は、この一首だけからはくみ取ることは困難だ。
「叙景短歌」では、まずは定型を守りたい。それはあまりに散文に近づくため、短歌であることを示す手立てを定型に頼るのが確かだから、といえる。
後ろから音立ててくる自動車の音のおかげで近づくを知る(奥村晃作『父さんのうた』)
「おかげで」という一言に作者の想いが集約される。取り方によっては、嫌味にも聞こえるかもしれないが、実際、電気自動車時代になると、この「音」がしないことで恐ろしい思いをするからである。
エンジンを動かしたのちボヘミアン・ラプソディから曲が始まる(嶋稟太郎『羽と風鈴」)
カーステレオにクイーンの曲が入っていたのだが、ランダム再生にしてあるので何がかかるのかは予測できない。とくだんこの曲が聴きたいということでもないのだろうが、そのまま運転していくんだろうという予測ができる。短歌上では選曲に意図があると読む方も多いだろうが、「叙景短歌」的には、偶発性、共時性を重要視したい。それは単に始まった、一回性の奇跡というだけのことで、意図はない。だが、ボヘミアン・ラプソディが始まった車内の雰囲気や、気分は重要なのだ。
「ただごと歌」は、再帰的、自己言及的形式のものが多くなる気がする。端的にいえば、同語反復が目立ってくる。それは、なにかの変化から感じる感想を示すため、同じことを二回言う必要があるからだ。〇〇は△△だから〇〇は◇◇だ、というような感じ。
煙突は海の近くに沿うらしく折々に知る海の方角(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
「叙景短歌」では比喩を用いるのはよほど習熟してからでなければ危険だ。
「~らしい」といえば比喩の他に、「伝聞」があり、この歌では「煙突の配置」をだれかに聞いたことになっている。自分の考えよりも伝聞を持ちいる方が「叙景短歌」の温度にふさわしい気がする。このごろは「短歌の温度」について考えている。それは、テーマや題材、つまりは目の前の現実とのかかわりかた、距離の「比喩」として機能する。温度はあまり高くないほうが望ましいと、今は思っている。
八十分一万二千発を打ち上げるそれの全てをボクも見ました(奥村晃作『八十一の春』)
詳細な数字を示すことによって抽象化させる。「それの全て」は具体的に何発の花火を見たかではなく、花火大会の始まりから終わりまで見たという、時間を示すものに変化している。と書いて、八十分一万二千発を打ち上げる で花火大会の規模や混雑具合を表し、調べればどこの花火大会かもわかるようになっている周到さに気づく。そしてこの周到さによって示されているのが「ボクも見た」という事実のみ、というところが痺れる。
見上げたるひのくれ色の電線をつたわりてゆき五人住む家(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
この「五人」はリアルだ。ただの「家」では弱いし、家の形でもまだファンタジーになってしまいそうだ。「二人」では物語が発動しやすいが「五人」ならばある程度防げる気がする。最適な数字の使い方だと思う。
想い
山中の滝に出会つてこの滝は自然の滝と思ひて仰ぐ(奥村晃作『蟻ん子とガリバー』)
小さなる円筒の中エナジーが蓄えてある電池は凄い(奥村晃作『象の眼』)
エスカレーターの備えがあれば一般にフツーの人はそちらへ歩く(奥村晃作『男の眼』)
箱根神社境内に杉幾百本あるのか大小数え切れない(奥村晃作『八十の夏』)
海に来てわれは驚くなぜかくも大量の水ここにあるのかと(奥村晃作『父さんのうた』)
ミニスカの女子高生の脚ばかり見つめるわれはフツーの男(奥村晃作『男の眼』)
どの歌も「わざわざ短歌にする」という行為そのものが「短歌性」を担保する。この「わざわざ歌う」という姿勢が重要なのである。この「報告」のスタイルは「叙景短歌」においても多用される。
さまざまに色を違うるコンテナが一つの船に積み上がりたり(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
地上までまだ少しある踊り場に桜の花が散らばっていた(同上)
ただ、その場合「どう思ったか」を「報告」することはしない。ただどういう状況があったか、を報告するのである。「叙景短歌」においては「感想」は徹底的に排除し、必要であれば、助詞の選択によって(理想的には)示す、ことになるだろう。
凝視の報告・描写
このカテゴリーの「ただごと歌」はほとんど「叙景短歌」と呼びたいものばかりだ。
寄せて来てテトラポッドにうち当たりしぶけるまでの波を見たりき(奥村晃作 『天啓』)
転がりし薄黄緑の梅の実がそのままありぬ昨日の道に(奥村晃作『天啓』)
独特の泳ぎであまり進まずに妻泳ぐ水から頭を出して(奥村晃作『鴇色の足』)
唇(くちびる)は真っ赤に塗って鼻筋はホワイトに塗る乙女が坐る(奥村晃作『蜘蛛の歌)
マイケルの踊りの所作が速すぎて顔の造作がよくは見えない(奥村晃作『青草』)
乙女らが「ヤバイ、ヤバイ」と大声を上げる夜空の大花火(おおはなび)見て(奥村晃作『ビビッと動く』)
藤色に咲き盛る藤の花に来て密吸い飛ぶはみな熊ん蜂(奥村晃作『八十一の春』)
「一回性」「共時性」「単独性」「今ここの感じ」などが「叙景短歌」に必要な要素というふうに考えている。
踏切のへこみを越える自転車は一度沈んでそうして弾む(嶋稟太郎『羽と風鈴』)
途中からツツジの群れが白くなるセブンイレブン前の歩道は(同上)
建てかけのタワーの上のクレーンが動かずにある三月の朝(同上)
「ただごと歌」を歌う
最後に、奥村晃作が自らの短歌を題材とした短歌を掲載する。
わが歌は歌壇少数派日常の身辺を歌ふのみ普通の言葉で(奥村晃作『父さんのうた』)平成の三十年かけ、やっとこさ〈気付きの奥村短歌〉は成りぬ(奥村晃作『八十一の春』)
いとけなきものが動けばその動き写し取るのがわたしの短歌(奥村晃作 2025年9月8日 X)
おわりに
「ただごと歌」から「叙景短歌」を炙り出す試み。収穫はあったと思う。今後もさまざまな題材を手掛かりに考えていきたいと思う。