望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

キス・キス・キス ―エロスとは変化の自覚の認識である文学

はじめに

今回のブログは、アダルトビデオ作品への言及を含みます。タイトルや、該当作品へのリンク、及び露骨な性的描写などは行いませんが、そういった内容を快く思わない方は閲覧をご遠慮ください。

 淫靡から始まる文学

「あたしどうしたのかわからない、いや、あたしもっともっと客観的にならなければいけないんだわ、そう、あたしは何をされたのかわからなかった、わからなかった……、うん、これでいい、まるで自分が他人みたい、いいやいい方をかえなきゃ、客観的に、客観的に……あたしまるで鏡を見るように自分自身を眺めることができるようになった、出来るようになった……うん、これでいいわ、(村上龍超電導ナイトクラブ』p.303)

キスするアダルトビデオ 

 アダルトビデオ作品のシリーズとして、女性同士がキスをするものがある。シチュエーションは、友達、先輩後輩といった役割の女性二人にディープキスをしてもらうよう出演交渉を行い、車内のソファーやマットレスでそれぞれのプロフィールや互いの関係性をインタビューし、フレンチキスからしだいにディープキス、最終的には互いに互いをイカせ合うという流れだ。(追記:以前にあった別のシリーズではよりシンプルに、女性の友達同士でディープキスのみをし、その感想を尋ねて終了だった。今回、改めてそちらも見直し、キスから先の行為については蛇足だと思った(後述参照)。残念ながら、といおうか、こうした企画はエスカレートしていくもので、18禁バージョンや、キスよりも他の性行為に時間をかけるものが増えていき、その分、「微妙な倫理観の揺れ」の境界がぼやけてしまっていると感じた)

 現場に男性はおらず、出演女性はある種のリラックスムードのなか、照れ笑いや、照れ隠しの冗談、監督がコントロールする場の雰囲気による過去体験の告白などを交えつつ、友人、先輩後輩といった関係に「性愛」を目覚めさせていくのである。

 当初は互いに戸惑っていた二人が、相手の唇の柔らかさや身体の温かさなどのスキンシップに安心と快感とを増幅させ、密着度は親密度を増していき、男性との経験との違いの新鮮さと心地よさに触発されると同時に、友人、先輩後輩を男性目線で捉える感覚を知る。

 自らのキスや指で、慕っている相手が気持ちよくなってくれることをうれしく感じ、絶頂へまで高めてあげたいと互いに思う。

 こうした一連の流れがわりと自然に高まりとして作品を構成しているのである。

『あたし、今、何をされたの?』(同前 p.302)

 このシリーズの中に、稀に「ドキュメンタリー性」を感じる作品が時折ある。アダルトビデオとしての用途を越えて、そうした作品は幾度も見返すことになる。それは、二人の関係性に、意図せざる淫靡さを持ち込んでしまう、beforーafter、のこのー(ハイフン)の部分に、「青春」を感じるからである。そしてわたしのなかで「青春」とは「文学」に他ならない。

 初めての経験への戸惑いとは、その経験を肯定的に受け入れることに対する背徳感との葛藤である。背徳感は、これまでの自我が保持し、かつ自我を保持してきた「倫理」にそぐわない体験に魅かれてしまっているとの自覚から発生し、葛藤するのは、それを受け入れてしまえば、それまで「倫理」によって保たれていた「境界」が猥雑になってしまうとの恐れるからである。

 友人に告白してもし上手くいかなかったら友人には戻れない。という古典的モチーフが古典的なのは、友愛と性愛のせめぎあいの射程の普遍性による。友愛がプラトニックで、性愛がエロティック。精神と肉体の相克、といった図式は、本源的なコミュニケーションの問題なのだ。

引きずり出される欲望は潜在的か?

 シリーズでは、どこかみな友達と性愛的関係をもってみたいという潜在的な欲望をもっているように企図されている。少なくともどちらか一方は、そうした関係に興味をもっており、撮影という状況下で、通常であれば言い出せなかった要求を、冗談めかした、しかし一途なまなざしで相手に伝え、相手はその熱にあてられて、試すことに同意する。

 友愛と性愛。精神的充足と肉体的快楽。だが、じつはそんな二元論そのものが仮構なのであって、人間が肉体である以上、両者は切り離すことはできず、(ただし、インターネットと端末の普及により、空間的距離を隔てた相手との意思疎通が親密になるとき、肉体と言葉との切断が生じ、疑似的な「二元論」が生成されることについては、また別の話で)そこの性愛的要素を共有しうるか否かは、フェティシズムの範疇に属するものなのだとわたしは思う。ここには「親しくなりすぎるとセックスができない」というインセストタブーとの関係も含まれるものと考えられ、これが生物学的、遺伝子的なものか、文化的なものであるかの研究を参照すべきだろうが、少なくとも、こうしたシリーズでは、手を繋いで一緒にカラオケや買い物にいったりする親しい関係の二人は、どこかでもっと親密になりたいと欲しており、それを満たしたいが、それを求めることで関係が変わってしまうことを恐れるあまり、それ以上の関係(信頼関係だったり、庇護し庇護される関係だったりといういわゆる「親友」という、秘密のない間柄)になれるかもしれない「性愛」に踏み込めなかったという、抑圧からの解放のテーマがある。

 だが、「親友」になるためには「性愛」関係を結ばねばならないなどということは実はなく、むしろ、親しい友達だからこそ、いままで抑圧してきた性愛の形を試してみたらいいいんじゃない? というスタンスに監督が出演者を誘導し、結局、肉体的快楽の強烈さによって、倫理感が変わってしまう。という部分が、好きなところである。

文学の生成

 常連たちはまさに文学の生成過程を生で確認しているかのような気分になりつつあった。(…)文学の誕生する瞬間がこれほどワイセツなものだとは誰も知らなかった。(…)それは驚異的なことだったが、さらに驚くべきことは、コンプレックスが言語へと至る過程のワイセツさがひどく自然に彼らを深く納得させたということである。(同前 p.329)

 「文学とは、変化の過程の記述であり、それだけのものである」と、誰かが書いていた気がする。そして変化とはすべて倫理の変化であってそれは必ず猥雑な淫靡さを経由した告白によって自己同一化する。それがエロスだとわたしは思う。

 このシリーズでは、このように性愛に目覚めた二人が、今後、この車内での経験を、かならず再現したいと欲するであろうこと、そして今いる恋人との関係にも影響を与えるであろうとの予感を余韻として残して終了する。しかし、その想像は実はさほどエロテックではなく、気づきと自覚の瞬間ほどのインパクトは与えない。予感は余韻として響けばいいのだ。

 やはり、この車内に生じた「祝祭的空間」におけるメタモルフォーゼの過程こそが文学であり、それのみが文学なのだと感じる。

 このような感覚を受けた映画としては、

『アイコ16才』『新・百合族 先生、キスしたことありますか?』『桜の園』などがある。重要なのはキャラクターと、インタビューや合間にふと洩れる感想や感情のリアルさに尽きる。これらをもつキャラクターは、顔を見ているだけでその背景や、日常の暮らしぶりが連想されてきて、話ができそうな磁場を発しているのである。

今回、このブログを書こうと思ったのは、出演した方のキャラクターの力、で特に薫先輩と後輩の陸さん(=いろはめる さん)の関係性にひじょうに魅かれたためである。そしてこうした作品を撮り続けている監督さんにも敬意を表したい。

おわりに

身体の性。性自認。性対象の性。これらは固定的なものではないと思う。(身体の性を性自認に適合させることにたいして理解は広まってきていると感じる)。性愛と博愛。子孫を残す、という生物学的営みと愛とが、同一であるべきという認識は改められなければならない。この社会がこの生物学的限定によって成立しているということは、まだまだ野蛮な社会であるということなのである。文化は野蛮を文明とする方便でしかない。(といった話はまた別のお話で)