望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『鼻に挟み撃ち』―保守革新であること 

はじめに

 2013年にいとうせいこうさんが『鼻に挟み撃ち』をすばる誌上に発表なさったのを知ってから、とても気になっていました。先日本屋で、集英社文庫の本書を見つけたので、購入してきた次第です。

 読後感は、「いとうせいこうさんは真面目な方だな」というものでした。

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まずは表題作『鼻に挟み撃ち』

 後藤明生さんの『挟み撃ち』こそは、もっとも小説らしい小説として私の中の最高位を占めておるわけですが、そのもっとも小説らしい小説のパロディを書こうという野心的な取り組みを正々堂々と行ういとうせいこうさんには脱帽します。

 小説とは言うまでもなく物語批評であり、テキストであり、脱テキスト的批評であります。すなわち、大文字の歴史を換骨奪胎する癌であり、その癌を誘発するウィルスでもあります。現実のあらゆるシーンを縦走横断するものは、言語ですが、言語ですら小説の批評をまぬかれるものではありませんし、無論、言語を駆使する(という思い上がりはサテ置いた上での)人間の存在やら自我やらといった「声」の可能性のいくつもの中心を露呈させるべきものが小説だと思っております。というより、「世界=物語」という方が「幻想」なのであって、そのような幻想が揺さぶられるたびに「小説」が露呈してくるのだ、というほうが正しいのだと当方は考えております。

 こういったところから、「小説の小説性」=「仏教の仏教性」という親和を抱いておるのことはまた別の話ではあります。

 さて、いとうせいこうさん版の、『挟み撃ち』は、十分に「2000年代的」であったと、当方は感ずるのであります。それは特に結末部のエンターテイメント性にあると感ずるのであります。このようなエンドは、この小説には本来必要が無いのであります。このようなとってつけたような物語パロディーは、現代の知性を信じない作者の「愛」なのだと感じます。主人公が作者とぐずぐず溶け合っていき、声の主体の主客が入れ替わっていくところや、テキストが現実を侵食し、現実がテキストを先導していくところなどは、まことに見事です。また、「当事者しか知りえない事実」を巧みに織り交ぜて、虚実の判定レベルをさらに高めていくところには、壮絶さすら感じます。

 私は、大学講師の話や、シティーボーイズとの舞台の話は、みんな嘘であればいいと思っています。付く必要の無い嘘。当事者に確認しても「そうだっけ?」とみな首を傾げてしまうような嘘。そのようなことは、あっても不思議ではないし、実際にそれがあったとすれば、当時の言動は説明ができるのだが、真実はどうであったかは調べようのない嘘。事実を説明しうる無数の嘘。

 寺山修司さんのように、たくさんの出自を赤裸々に語ること。稲垣足穂さんのように、思い出を酒と未来派とで埋め尽くすこと。それらが事実であるか否かはどうでもよく、それらの多数の出自、生き方、可能性世界の必然的に偶然な組み合わせで読み解く過去からずれていく現在を描くこと。

 それが小説ではないのかと思います。だから、私はあらゆる「作家論」に興味はないのです。「作品」をおもしろくするために「作家」がいればそれでいいのです。

 その意味で、『鼻に挟み撃ち』はひじょうに真面目な、いや真面目すぎる「小説」だと思うのです。おもしろいことは間違いありません。しかし『鼻に挟み撃ち』は『挟み撃ち』を殺せなかったと思います。

『今井さん』

 主人公の職業選択からして「小説」を意識したものです。自分の声とは何か。という問題と日々これほど向き合う職業もなかろうと思われるほどです。そして声とは知識であり記憶であること。声を書字することは声を私することであるという「意味という病」ギリギリのとこで、踏みとどまれなかった主人公の、他人の声にのっとられてしまう感じ。そののっとられ方の、デーデル性というか、ウィルス性というか、寄生虫性というか。ともかく宿主はのっとられていることに気づけず、「我とは、一番大きな声である」という点で、「統合的主体」という幻想に裏側から迫った結果、おそらくは「統合失調症」と名づけられうる状態に陥っている。これは小説家のギリギリのラインを示しているものと思われるし、これを書いている作者自身の、強固な「我」を感じさせるものである。

 小説家は、声を統合できねばならない。それは、解離性人格障害者の「統合人格」、「報告者」としての声を、仮想的メタレベルに保持しつづけなければならないということでもあろう。

『私が描いた人は』

 すばらしいPQ。だが、なぜ作中話者自身は、このような回りくどい方法でPQのことを描かねばならなかったのだろう? この小説はべつにこの「絵」がなくても成立するのである。だが、「懐かしく思い出されるPQの絵の七枚の連作」がなければ、この小説はまるで違ったものになってしまうのだろう。絵ということで野間宏さんの『暗い絵』などを思い出すものの、未読なので参照関係にあるのかどうかも分からない。が、いとうせいこうさんの小説なのだから、なんらかの「下敷き」があってしかるべきとは思う。もちろん、批評をするのであれば、「下敷き」探しは必須なのである。だから、私はそのような探しものばかりに苦労して、読書感想文を後回しせねばならない義理はないのであります。

 さまざまな形式で描かれえる七枚の絵画。それは、さまざまな文体で描かれる小説を彷彿とさせるわけである。では、絵による小説を標榜したものであるか、といえば、これは紛れも無い文字作品なのであって、絵画はどこにも登場しない。『風の歌を聴け』のTシャツの絵ほども、無いのである。これは、絵画のパロディであり、絵画と小説との補完関係を表したものなのかもしれない。一つの対象をさまざまな角度から見たものを一枚の画面に現す方法を「キュビズム」といったり「コラージュ」といったりする。まさに小説とはそのように描かれる「時間芸術」である。では絵画は「空間芸術」かといわれれば、人間は絶えず、狭い視点を移動させることで視野を認識するのであるから、空間芸術とは「ミクロ時間芸術」に他ならないのである。全て移動を伴うものは時間を伴うからである。ということはまた別の機会に。

 さて、PQが屋上で銀河の遠さを感じようとするシーンは素敵だ。かつて、村上龍さんが、『五分後の世界』(?)に関する対談で「免疫抗体の小ささを実感できたとき、書けると思った」というようなことを言っていて、そういうもんなのか、と関心したことがあったが、PQの認識はほとんど宗教的な悟りなのであった。それが三回あるという。それや後光も差して見えるだろう。ということで、このときのPQを描きたい、というのが連作の発端になっているのだそうだ。

 一枚目はほとんど抽象画。二枚目は水彩画。三枚目は肖像画。四枚目は木炭画。五枚目はおぼろげな後姿。六枚目が件の宗教画。七枚目が重機を乗り回す絵。

 おそらくこの全てに意味がある。なぜならば、書いたのが、いとうせいこうさんだからだ。

『フラッシュ』

 村上龍的だ。実に過激でありながら実にオーソドックスだ。息切れせずに書きとおすには骨が折れるだろうが、一人称がシームレスに入れ替わることでうまくもたせているなと感じる。こういう文体は大好き。書くことと読むことの相克と共犯関係が小気味よかった。

おわりに

 小説的なあまりに小説的な小説を書くという労働にいそしむいとうせいこうさん。私は『ノーライフキング』を読んでおらず、『解体屋外電』から入って『ワールドエンドガーデン』を読んでいたにすぎない。『見仏記』は読んでいる。そして『帝都物語』での今和次郎役が好きだった。

 純文学小説の良心として、常に保守的な小説を書くという労働を今後も期待してしまう。それは常に、小説を、言語を、社会通念を、世界を、組み換え、拡張していく営みであると思うからであります。