はじめに
小説は粘菌の如く貪欲だが、「詩」だけは別腹だと思う。
わたしは「小説」が「「その他」であるが故に「すべて」である」ような器であらゆるビュッフェを巡ることができると信じていた。その「定義不可能さ」こそが「小説」の唯一可能な定義だったからである。
にもかかわらず「詩」だけは別腹だ。
「小説」が広義の「物語」を解体する身体として存在し、長らく無敵だったのだが、その不遜な不定形性そのものである「小説」を「詩」は解体しうると、考え始めたのは今年に入ってからのことだ。
たとえば「小説」が「詩」に近づいてしまうことはママあって、そのような「小説」をわたしは好むのだが、「詩」が「小説」に近づいたときそれは「詩」ではなく「小説」と呼ばれるべきだと考えている。
「詩」は「詩」であるよりほかないのだ。
これは優劣の問題ではない、などとは言えない。あらゆる形式を「小説」の血肉にしうる消化酵素が、唯一、毒物と認定せざるをえないのが「詩」だ。いや、「小説」を壊滅させられる塩基配列を供えたものだけが「詩」と定義可能なのだ、というほうが正鵠だろうか。
「物語」は自明だが「小説」は人為的操作により生成される。
「詩」は、自明だが人為的操作の際に敗北し続ける宿命にある。
つまり、「詩」は「物語」のように遍在するが「小説」のように生成できるものではない。
では、そのような「詩」はいかにして出現可能なのか。
「詩」と「詩」ではないもの間にはどのような差異を見出せるのか。
そもそも、そのような峻別は可能なのか。
もちろん可能である。という立場からわたしは始め、「詩」と「詩的なるもの」を例示しながら、詩を定義し、詩の生成方法を研究してみたい。
コード(酵素)
書かれたものを読むということは、書かれてある言葉を、読む者のあらゆる経験の記憶のうちで、リアルタイムに想起、連想可能であったイメージ群(酵素)によって解体、咀嚼、消化、吸収する消化活動とみなすことができる。この「酵素」の主な働きは、意味と無意味の峻別と意味を結合させて吸収させやすくすることだ。なるべく多種の「酵素」を供えていれば、多様な「書かれたもの」を吸収することができる。
しかし、「詩」を分解消化吸収する能力をもつ「酵素」は、通例の経験から得ることは不可能である。
たしかに「詩」は日常に偏在している。だがそれは、表現されたものとして遍在しているのでなく、「ただ在る」のであって、それを「詩」と認識しているかと言えば、まず大半は認識することができていないのである。「虹」だったり「天使の梯子」だったり「彩雲」だったりといった、非日常的かつ美しい「印」を感知してそこに「詩」を感じるということはあるだろうが、そのような「詩」の感じ方が絶望的なほど「物語のコード」に侵されているため、その経験から書かれた作品の大半は「詩」ではなくなってしまう。
世間に流通している「詩」と分類されるコンテンツの大半は、一般的な物語の酵素(コード)で咀嚼されたものである。おそらく、「詩」の捉えにくさが人類に「物語」をもたらしたのだろう。
当初それは「神話」であった。「神話」は「詩」の捉えにくさを構造的に保持し続けており、その意味で十分に「詩的」だったが、繰り返されるたびに荒れていく過程で、難解な部分は省略され、もしくは誤った類型化によって消滅し、理解しやすいのっぺりとした典型に堕していき、現在ある「物語」のコードの大半は「凡庸」化されてしまった。(この「凡庸」な「物語」に対する批評として「小説」がある)
詩に近い小説
世間に氾濫する「詩」のイメージは「一人ごと」ではないだろうか。一人称の感情を面倒な描写を省けるという免罪符のもと、句点または読点の替わりに、文字空けや改行、しかもひじょうに恣意的な、時に視覚効果を重視したような改行を多用した、ほぼ箇条書きに近い形式ではないだろうか。
そう
それは
詩に
とても
似てい る(た)ので
みんなすっか・り
だま
され
て
しまった
もちろん、「詩」か「詩ではない」かを、レイアウトで区別することはできない。視覚詩のようなタイポグラフィーマニアチックな作品も古来から制作されているが、そのような取り組みはある種の「芸術的作品」であっても「詩」かどうかは別のところで判断すべきと考える。たとえば新聞のクロスワードパズルも、一面に記された大小の記事が形成する境界線の複雑さも、レイアウトの観点からは十分に視覚詩的であるが、先に示したように、ずらずらと書き連ねれば散文であることが露呈するようなものは、当然「詩」ではない。
となれば、「詩」か「詩ではないか」の差異とは、結局、何を伝えようとしているのか、に帰結する。全ての表現は「伝える」の一点を動機として制作されるのだから。
幻視の女王
晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて
昼しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつおり
止血鉗子光れる棚の硝子戸にあぢさゐの花の薄き輪郭
夕雲に燃え移りたるわがマッチすなはち遠き街炎上す
とり落とさば火焔とならむてのひらのひとつ柘榴の重みにし耐ふ
あやまちて切りしロザリオ転がりし玉のひとつひとつ皆薔薇
水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪黴びたり
葛原妙子『葡萄木立』
上記はこちらのサイトから引用した
短歌は詩か? という問いは無意味だろうか? わたしは短歌でも「詩」の身体になりうるという希望を抱いているが、「短歌」即「詩」ではない。短歌の身体は詩の十分条件ではない、というのは言わずもがなのことである。
幻視の女王と呼ばれる葛原妙子であるが、引用歌のような叙景においてその凄みが発揮されるものと感じる。「幻視」と「幻覚」とでは、「幻視」のほうが「詩」への密接性があると思う。完全に唯物的現実を離れてしまったところに「詩」は見いだせないと思うからである。
『地球の恋人たちの朝食』雪舟えま
「詩」に近い「小説」の筆頭が、『地球の恋人たちの朝食』雪舟えま である。なぜこれを「詩」と呼ばないのかについて記しておくが、それはこの作品を貶めるためではない。ここに記されている一言一句はすべて、果敢なく強く美しく哀切な愛に満ちていると断言できる。そしてこの「愛」の要素によって「詩」から少しだけ離れるのである。
「愛」は「詩」で表すことはできない。と言っているのではない。「詩」によって示そうとする「愛」と「神話的愛」との角度が異なっているから、というのがその理由である。ここに表される「愛」は「凡庸」なコード(酵素)だけでも咀嚼可能でありながら、やはり「詩」の構造の困難さを止めた「神話の愛」に根差していると感じる。
詩になろうとする掌編『檸檬』梶井基次郎
新潮文庫のカバーの裏面にこのような紹介文がある。
「(前略)特異な感覚と内面凝視で青春の不安、焦燥を浄化する作品(後略)」
『檸檬』という掌編は、全編を詩的なオブジェクトで満たしたいという作者の渇望を感じる。この「詩的」とは、「何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている(p.8)」と書かれている一群である。
それから「不図、其処が京都ではなくて京都から南百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。(Pp.8-9)」のように、「幻視」に浸ろうとするのだ。
この掌編もわたしはとても好むのであるが、これを「詩」として読んだことは一度もなかった。この内容の「詩的」な部分は全て、作者の欲望によってかき集められたもので、その姿勢はおそらく「詩」からは遠いものだと感じるのである。
単なる存在の静寂 モランディー
ところでオブジェ(スティルライフ)の佇まいは常に詩的であると思うし、ほとんど「詩」と読んでしまいたくなる。ハンマースホイや、ジャコメッティ、エドワードホッパー、アンドリューワイエス、などに共通するのは「静寂」である。
なんとなく、「詩」と「静寂」は親和性があるという先入観が正当か否かと問えば、おそらくは「否」であろう。静寂を感ずるとすれば、真夏を鳴き占める「蝉」があまりに飽和してしまって「音」として感じられないでいるときのような「静寂」なのではないか。そしてその静寂は「詩」が「詩」として断ち現れる寸前の記憶なのではないかと感じる。
「詩」は「存在」と密接に関係する。その関係に注目している間は、歯車やモーターがそここで咆哮するがごとき轟音は裏側に追いやられてしまうのである。
不自由に自由である引っ掻く 小笠原鳥類
わたしが「詩」というとき、念頭にあるのは 小笠原鳥類 の詩群である。随所に唐突に挿入衝突するワードの大半が過去の経験、読書記憶からの引用であること、といった確認は別のブログに譲るが、
もっとも特徴的なのは「物語のコード(酵素)」では絶対に咀嚼不能である点だ。
したがって、その詩がどのような意図で、なにを伝えるべく生成されたのかが不明なのだが、それでいて、離れがたい魅力があり、くちずさみたくなるチャームがあり、真似したくなるフレーズが頻出し、定型がありながら、つねにぐねぐねと異なる姿態で、見られることを意に介さない水族館の魚類のように、平然と在る。
わたしはそれらの「詩」のどこをとって「詩」と断定すればよいのか、わからない。だからこそ、テキストに沿って精読を試みているのであるが、わたしが少しだけ手にしている「詩」のコード(酵素)で、小笠原鳥類を咀嚼できるかどうかは不明だ。その表層を引っ掻くだけのように見せて実はあらゆる内側にまで指がまさぐっているのかもしれず、つねに刺激を受ける、小笠原鳥類なのである。
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終わりに 言語にとって「詩」とは何か
「黙示録文学」においては、記された意味は、日常的事物に相当しないという一種の暗号文学なのだそうだ。言葉とオブジェが、示すものと示されるものとして繋がる、この一瞬の時差に「意味」が生じると、言葉とオブジェは「意味」を仲介するための駒へ成り下がる。「意味」に王位を授けるのは我々の脳の構造によるのだろう。この世界の大半の表現活動は「意味」の奴隷なのだが、「小説」は辛うじて「自由」を叫ぶことができ、おそらく「詩」はその「自由」を含めたあらゆる「意味」の生じたあの「時差」にわずかに先んじる刹那に貫入しているのだ。
だからわたしは「詩」を定義しようとする試みに挫折し続け、その記録を「詩的」と評されることに忸怩たる思いを抱きながら、恍惚と涎を垂らすのである。