望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

小笠原鳥類さんを拾い読む 3 ――『吉岡実を読め!」ライトバース出版より 2『液体』

はじめに

 前回に引き続き、小笠原鳥類さんが現代詩について書いている箇所を拾って、そこから現代詩を透かし見る試み。『吉岡実を読め!』ライトバース出版(2025年3月1日第三版)から抜粋していく。この本は400ページを超える量で、吉岡実の全ての詩について書かれたものだ。小笠原鳥類さんが吉岡実さんの詩をどのように捉えているのかによって、現代詩とはどのような姿をもつのか(もつべきか)を検証できればと思っている。

2『液体』

(前略)「ながれしまう」、おしまいに「しまう」で終わるのは、終わりらしく終わってしまうのが、ストレートで、どうなのか。(p.34)

最初の詩「晩夏」の最後の一行についての引っ掛かり。

フォーク、狐、北十字星、という、つなりが、するどいものたちの、つながりだ。(p.34)

「晩夏」の途中に出て来る「するどいものたち」は、星座尽くしの読み解きで、書いてある星座の周辺にある「夏の夜空」を描き出す。

(前略)冬の薔薇星雲(一角獣座)が、薔薇の花のようでもあるけれど、頭蓋骨のようでもある。(p.35)

次の詩「花冷えの夜に」から、直接そうとは書かれていないが、前の詩の「晩夏」からの繋がりで、花とと尖った物をつなぐ「冬の薔薇星雲(一角獣座)」が呼び起こされ、それは「頭蓋骨のようでもある。」と締められる。

そして次々に変身する軽やかな情景の詩(p.35)

詩はイメージの連なりだからな、と読み流そうとしたところ、「情景の詩」と書いてあることに立ち止まる。情景が次々に変身していくというのは、生半のことではない。この「朝餐」の詩は冒頭で「オーケストラの人(たち?)が、春の山脈に変身する。」のだ。

次の詩「溶ける花」については、

宗教の詩、もしくは、詩の美を素直に信じている人の詩。(pp.35-36)

とし、「宗教と美」の素朴な関係性を述べる。

「次の詩「蒸発」(「聖母祭」ではじまる)も、

「包まれてしまう」、しまう、で、おしまいになるのが、気になる終わり方だ。終わりらしく終わるストレート。(p.36)

と、やはり終わり方が気になるという。この詩は「途中が」「すなおに、きれいなので、」(中略)「意外な要素が欲しくなる。」と論ずる。

この中身であれば失題であってもいいな、と思わせる中身の強さがあるかどうか。(p.37)

「失題」という題名の詩について。「自分の詩に自分でこの題名を付けると、いい題名を思いつけなかった苦しい文学的言い訳にも見える。」と書く。

また「失題」については、

(前略)まともすぎる。いろいろ独特なことが書いてあっても、すべては戦争という大事な主題を語るための小道具になってしまう。戦争を賛美して勝利を予言してほしいのでもなくて、なんだかわからないものであってほしい。(p.37)

と書き、さらに、詩についてこんな文章が続く。

たくさんの細かいことが、大事な何かに奉仕する道具になるのではなくて、なんだかわからない、現実でもない禍々しさになるような、わけがわからない詩を。わかることは、すべて、悲惨な現実がわかることであり、詩は、そういうものであってはいけない。まっとうな結論を言ってほしくない。ほんとうのこと(が、どこかに、あるのか)がわかっても、何もいいことない。(p.37)

は、反芻したい言葉である。

この「液体」は、「年譜」(吉岡陽子編)によれば、招集された吉岡実の「遺書」としてまとめられたことが分かると紹介し、「深刻に読まなければならないのか……きついなあ……。」と閉じられる。この前の部分、「なにもいいことない。」のあと、「平和」と「詩」についてこんなことを書いた後での感想であった。

平和とは、大事な何かに支配されない、細かいものたちの自由なザワメキであるだろう。ざわめく細かい、ややもすれば、どーでもいい言葉が、戦争への、権力への、楽しい抵抗となって生きる。深刻な表情に支配されたくない。教訓は不要だ。(p.37)

わたしはここに、浅田彰の『構造と力』『逃走論』を一部重ねている。「細かいものたちの自由なザワメキ」は、80年代に意味が記号に取って代わった頃を彷彿とさせる。意味に終始する世界は統制的であるとわたしも考える。元来、言語こそが、無自覚に統制的な構造を持っており、意味するものと意味されるものとの恣意的な関係の不可逆性という、無計画かつ強固に制度的である。詩は言語に随伴しつつ、言語的に抗わねばならない。そのための方法として「逃走論」は有効なのである。「大事な何か」こそを「おろそかにする」姿勢を「ヒューモア」と呼べば、柄谷行人に連なってくるし、文学をその表層において徹底的に、愚鈍に戯れ続ける姿勢ならば、蓮實重彦が参考になる。わたしの基本的な考え方は、いまなおこれらの方々の著作による。それで、現代詩を語ろうとして言う点は、記して置くべきと思う。ともかく、彼らはいまだに有効だとわたしには思われるからである。

横顔を 魚族よぎれば 胸郭の
花くずおれぬ 君よいずこに
(p.39)

これは、「液体」の最後に「反歌」として記されたものだという。

こういう、少し硬い言葉も使った、きれいな泣きの歌が、もしかしたら、モダニズム、ということだったかもしれない。(p.39)

と評する。詩の語り口は、難しい漢字と文語の印象が強い。モダニズムとは、それこそ、「大事な」「大文字の」「真剣な」「自己確立」といった言葉で表せる風潮だったと思う。当時はそれが拠り所となり、「細かいものの自由なザワメキ」はかき消された時代だったと思う。それは、今から眺めれば窮屈で統制的な時代にみえる。

この後、このブログでも取り上げたいと思っている『一九二〇年代モダニズム詩集 稲垣足穂と竹中郁その周辺』(思潮社、二〇二二)からの抜粋があり、うれしい。

この節はここから、詩の言葉について書かれている。

近代的に科学が発達して、学校でもたくさんのことが教えられるようになると、科学的・専門的な言葉の美しさの感覚が、幼年のノスタルジーとかかわる詩になっていく。賢治がいて、SFというジャンルもある。モダニズムというものは、そのような詩だろう。(p.41)

私の中では稲垣足穂と宮沢賢治が双璧だ。しかしどちらも、当時の主流というより、単独的であった印象があるし、足穂と賢治とは科学に対するスタンス、というか現実に対するスタンスの違いから、作品の印象も全く異なっている。端的にいえば、足穂は都会的であり、賢治は牧歌的だ。

 凝った実験なモダニズム詩と、泣ける抒情の詩(中也や立原道造のような)とを、違うものとして扱うと、間違える。立原道造は甘い歌を歌う人ではなくて、しっかり組み立てる人であるのだが(後略)(p.41)

 注意すべき点。大正モダニズムと昭和モダニズム、それと大戦後のモダンとは区別しなければならない。これは単にわたしの勉強不足である。閑話休題。

 中原中也もダダイズム詩人として登場している。この後、「ヘンテコモダニズム」について書かれている。

 へんてこモダニズム、というものがあるとすれば、朔太郎から始まった、かもしれない。(p.42)

とし、朔太郎の「月夜」という三行だけの詩を採り上げて、

 新鮮だっただろうシルクハットという語・もの(あえてルビを使って書くこと)。短歌や俳句の五つや七つのように音の数を揃えない言葉の「ゆがんだ建築」。短い瞬間の美。(p.43)

この後、「朔太郎も、道造も、やがて読まなくなる青春詩人ではない。」と書く。われわれの成長途中に少し立ち寄るだけの詩人などではなく、「いつまでも続くエンターテイメント。」なのだと。

そして再び、吉岡実に戻る。『液体』の次の詩「誕生」から、

古くて新しい伝説を作っているようだ。星座になるかもしれない。生き物をたくさん出せば、なんとかなる。(p.44)

と、とても実用的なことを書く。続く詩について、

「乾いた婚姻図」の最後が「やがて乾いてしまう」、これも、しまって、終わる。繰り返されると、おもしろくなる。『液体』で「しまう」で終わる詩はここまでの三つ(「晩夏」「蒸発」と、これ。)厳しく決めすぎない、かたちの、柔軟なおもしろさ。(p.44)

しかしこの『液体』の詩の仕舞い方をこれほど気にして通読する人がどれほどいるだろう。だが、詩の最後はそれほど重要だということを教えてくれているのかもしれない。次の詩は「微風」。その最後の一行「一羽の透明な鳩が見えはじめた」について、

きれいだが、どういうハトなんだろう。もっと書いてほしい。新鮮な海水を飲むアオバトか。(p.44)

と。これは、小笠原鳥類が既存の図鑑から詩を作ったり、書評を引用詩のようにする際の一つの方法なのかもしれないと思う。

「忘れた吹笛の抒情」については、「題名がストレートにきれい」と言い、途中の一行、

たえず蛍どもを匙でとらえる(p.44)

について、「いい金属だ。」と一言褒めて、次にうつるところがものすごく面白い。

「眼球が月と共に溶解し」。ちょっと私には、つらい、過剰なグロテスク。美を求めることが、つらくなることもある。(p.45)

これは「微熱ある夕に」からの抜粋だろうか。全体的には「耽美」と評されているのだが、美にはコッチ系も確かにあるな、と思う。猟奇と耽美は接近することがある。これについては別に考えてみたいところ。

次の詩「風景」、最初「猿の頭」が出てきて少しグロテスクであるけれど、少し変わった言葉を使って泣かせる歌。まともな言葉ではなくて、変わった言葉が居心地のいい「ふるさとの泉」であるような人もいるのだ。吉岡実は過激な言葉を使いながら、しかし、むかしからある場所を生かしていた。(p.45)

グロテスク耐性なさすぎかも、と感じるがそこは詩人の感性というものかもしれない。「過激な言葉」で「むかしからある場所を生か」す。とはどういうことか、実作を読んでみなければわからない。しかし、わたしは、「簡単な言葉で」「今ある場所を異化する」ような詩を作ってみたい。

次の詩「ひやしんす」、hyacinthというアルファベットの言葉をひらがなで書くのが、今見ると少し古いモダンだ。百年くらい前の時代が懐かしいと思う。(p.45)

今まさに、昭和レトロいっても昭和40年代よりこちら側のだいたい50年前くらいを振り返るムーブではないかと思う。それより、大正ロマンの方が新しいと感じてしまう。当時の未来像のレトロ感を比べてみるのがおもしろい。先の大阪万博当時に描かれていた未来が、もしかしたらわたしたちの未来の想定の限界だったのかもしれない。今の段階で想像する未来は、あまり楽しそうではない。

そこに「母性」と出てくると、あまり〈女の人〉をノスタルジックな幻想に閉じ込めてほしくないと思う。作者が勝手に動かす登場人物が出てこない文学がいいと思うようになっている。人間は詩ではなくて別のところで現実を生きてほしい。(p.45)

「母性」の件は、すぐ前の引用の直後に続く。「元始女性は太陽であった」みたいなとってつけたような底の浅い女性礼賛は邪魔で、わざわざそんな言葉必要ない、ということだと思う。その流れで、作者が完全に支配する文学を楽しめない心境、というのも分かる。文学、詩は当然として、小説もまた、予定調和ではつまらないとわたしも思うし、何度も書いていると思うが、書くことで作者そのものが改変させられるような作品でなければおもしろくないのだ。文学を生きるのではない。文学も現実の生を構成する部分なのである。

次の詩「花遅き日の歌」、いろいろなことが書かれている。いろいろなことの、どこかに、ある読者にとって思い入れのある語があれば、そこから、その読者は入っていくことができるだろう。「金魚の呼吸」から、入っていくことが、できるかどうか。吉岡実が、これをこのように書かなければならないのだ、という強い重い込みを発達させるのは、『液体』のあとの『静物』からだろう。(p.45)

読者の入り口になる語。これを「フック」と呼ぶことが多い。しかし、フックになる語をマーケティング的データによって用いることは、あまり好きではない。「金魚の呼吸」と書くべきだと思うのなら、そう書くべきだと思う。商業誌になるとまた別の基準が生ずるのだろうが、読者は、案外意外なところに入口を見つけてくれるものである。

詩は感覚だけではできない、いい意味で生活が出ていないといけないのではないかと思います。『静物』の作品は二九才から三六才までのあいだに書かれていますが、『液体』との違いは、いい意味での生活が出てきたのではないでしょうか。(p.46)

上記は現代文庫『吉岡実詩集』の高橋睦郎「吉岡氏に76の質問」の吉岡実の発言(一四三ページ)。この発言を小笠原鳥類はこう解説する。

生活が出てきたと言っても、生活らしい生活をエッセイのように書く、ということではなくて、グチャグチャな言葉であっても、そうであるからこそ、そこに生きていることが現れている、ということ。『液体』はグチャグチャなことが、『静物』からあとの詩集に比べると、あっさり、きれいである。(p.46)

とても分かりやすい。つまりは、「詩」でありすぎようとしない。「美」でありすぎようとしない。生活を離れたところに、それらを求めなくてもよい。ということだ。だが、そのように作ってなおそれが「詩」であり「美」であることは、簡単ではない。

こういうものは誰でも書ける、と思わせるものは、不要だ。他の誰にも書けない技術を。(p.47)

しかしすぐに、生活がなければ駄目だ、ということでもないと付け加える。

生活がないことが、純粋な美であって、きれいごとは、きれいである。そのようなものがいい、という気分の時もあるだろう。(p.46)

生活とか、リアルとかではなくて、生きていない生きものの幻が、いいと思える時も、あるだろう。(p.47)

クラシック音楽だけでは生きられないが、クラシック音楽でなければならない時もある。(p.47)

つまりは、「枠」を広げていくべきだということに尽きる。

どうも人が亡くなることにかかわる語が、美にように出されることが、きれいに、軽い。私は、死に憧れたくない。(p.48)

「詩」を書く上で、死に関することをテーマとすれば、それだけで箔がついたように感じることはよくある。それをアテにして作り始めていることさえある。わたしもそれは安易だと思う。死は賛美されるべきではないし、過剰に哀しみのみで塗りつぶすべきものでもない。世の中に氾濫する「死」や「喪の仕事」関係の、月並みでありふれた、しかし茶化すべきでない真面目な、嘘臭いけれど真実な感情を柱に詩を作ることを、禁じたいと考えている。

現代詩は開かれた知ではなく〈中二病〉である。(p.49)

この引用の前で、中二病はこのように考察されている。

詩は〈中二病〉と言われるもの、なのだろうか。この語は、どうも中学生である人たちへの差別のようでもあるのだが。
 勉強した言葉をたくさん詰め込んだ古典美のある文章は〈中二病〉のようなものか。いちばん言葉を吸収するだろう時期、学生のような美である。喜びがあるので、必ずしも悪くない。あとで恥ずかしいと思うだろうか。吉岡実は最後まで、そういう詩人だった。詩を発表して、詩集を出してしまうことの、恥ずかしさ。私は、キライではない。(pp.48-49)

そして、

現代詩手帖は、もっとバカ美しい雑誌であっていい。オトナな現実の世の中に届けようとして、魅力を失っている。(p.49) 

と進言する。ずっと「詩」をとりまいていた、無駄にアカデミズムでお固い風潮がわたしは嫌いだ。だからもっと、笑われることをいとわないでほしいと思う。人は直視したくないものを防御したいとき笑うのだ。だから笑われることが、詩の宿命でもあるとわたしは考える。

ただし、小笠原鳥類は続ける。前述の「大事な何か」につながる主張だ。

ところで、美が、戦争とか国家とか、大きなものとむすびついたら、イヤだ。他の人と違うことをどうしても言う、という拗ねた美が、あるべきだ。(p.49)

また、「人と違うこと」という紋切り型の罠に陥らないよう、知見を深める必要性も併せて説く。

人と違うことを言おうとして〈意外に普通に、ありがちなものになってしまうこと〉が、一番こわい。たくさんいろいろなものを読んで、それらとは違うものを書いて、ワナから脱出するしかない。(p.50)

まさに、「逃走論」である。

ここから各詩の評に戻る。

『液体の後半になって、ギッシリ美しい結晶の、恥ずかしいけどロックな散文詩――poème en prose――が増えてきたようだ。(p.50)

つまり、〈中二病〉になってきたということである。

ここで、表記についての考察が挿入される。漢字とカナ混じり表記の一般性についてである。

吉岡実が書いていた当時、漢字とカタカナで書くことは、どれくらい〈普通〉なことだったのだろう。今では、美を追い求めているように見える。賢治の一九三一年の雨ニモマケズは、漢字とカタカナで美を求めているというよりは、ボソボソ語っているように見える。(p.50)

と、ここで賢治を少しだけイジワルに出しておいて、直後に「薤露青(かいろせい)」を紹介し、「イヤになるくらい美しい」と評している。そして、

朔太郎、賢治、道造、モダニズム日本語の詩は、一九一〇年代から三〇年代に、ギリギリまで美しくなったようだ。(p.51)

とまとめる。

さいごに

この節の最後は〈中二病〉の美に関する考察で終る。

こういう、幻想な言語の紋様について、恥ずかしい、と思って立ち去ってしまう人がいるだろうし、いつまでも美しいと思って見続ける人がいて、どちらも、しっかりした反応だと思う。私の中に両方があるようだ。(pp.52-53)

この節のまとめにふさわしい言葉だと思う。詩は過剰に詩の体裁をまとう必要はないが、詩の体裁を纏っていてもいい。それは作者が世界にどのようにフックされ、読者がどのようにフックされるかを表すものだ。ただ、紋切り型に落ちいることだけは避けなければならない。その罠によって、詩と詩人は大きくて、大事とされるものに取り込まれ、硬直化して、道具と化してしまうからである。

まだまだ分厚い本の先は長い。

ゆっくりとおつきあいいただければ幸いである。