はじめに
世の中のほとんどすべてのストーリーがこのタイプに分類される。わたしはこの手のストーリーにうんざりしている。なぜならみんな同じだからだ。
気味の悪さ
未成熟者が経験を経て成熟する。クリアできなかった課題をクリアできるようになる。分かり合えなかった者同士が分かり合えるようになる。このようなストーリーに内外問わず関係するすべての人間の温情あふれる微笑みが気持ち悪く感じてしまう。
同じ型
成長の過程と着地点が類型的なため、それぞれのストーリーが依拠するディテールには関心をもてたとしても、いわゆる「人間ドラマ」の一切は無駄だ。というよりも、まず同じ人間ドラマの型があり、それを様々な意匠に当てはめているだけなのだから、当然、同じものが出来上がるのである。
ドキュメンタリーであったとしても、作者が人間ドラマを意図しておればそれはドキュメンタリーの意味はない。
成長は善?
成長により救われる物語ならもう知る必要はない。類型的成長ドラマばかりを見せられていると、人間は何一つ変わることができないのだと、逆にうんざりしてしまう。すべてが類型的であるがゆえの欺瞞というかうさん臭さを感じるのである。
小説の使命
これを教養小説と呼ぶのなら、教養を強要されるのはごめんだ。小説とはこうした類型を打ち壊すものであるべきだと思う。
連載より一話完結。ストーリーよりギャグ。経時より共時。順路よりも迷路。
豊かさとは
未熟から成熟へ交通整理することで失われる多くの事物にこそ豊かさがあるのだと思う。それらの無視される事物を、脈絡のわからないまま弄ぶ態度にこそわたしは教養を感じるのである。
教養小説とは世界を限定的にとらえ、全体を歪めて卑小化してしまう。それは、たかが人間が村で生きるための教条訓に過ぎない。それこそが重要なのだという立場を拒絶することなく、わたしにはもう、十分です、と箸をおくことにしたいのである。
おわりに
今回は、ただ書きなぐっただけのブログなので、そのうち作品などを取り上げて丁寧に検討しておきたい課題として、まずは終了する。