望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

「反ー存在」態としての人間 ―『意味の深みへ』を一読して

はじめに

 井筒俊彦さんの『意味の深みへ』を一読し、現在は『コスモスとアンチコスモス』にとりかかっている。

 この先、何度も読まなければならなくなる著作であり、読むたびに変化を余儀なくされる著作であることから、ここに一読した印象を記しておくことは「目安」である他はない。

 それでも、自分がどこにおり、どれだけ変化したのかが分かるようにしておくことは有用だと思う。

 変わるのは自分ではなく世界であり、その新たな環境に存在し続けようとする命が、それまでと同じ「事物」に新たな意味を見出していくことになる。そのとき、銘記しておくべきことは「差異」だけだと思う。

意味

 存在とは限定された環境に他ならない。それは認識論的閉鎖系で、そこに存在する物は、その内側で、互いに半開放的な循環系を構築する。それは、それぞれの場面で、水の循環とか、生態系とか、経済とか、輪廻などと呼ばれている。

 ※認識論的閉鎖系:この宇宙への知見に応じて、閉鎖された環境はどんどん広くなってきており、将来は「隠れた次元」までも閉鎖系のフィールドとできるかもしれない。という点で、認識論的、という言葉を付した。

 自らの存在に関与する事物には「意味」があるとみなされ、「法則」が見出され、「名前」がつけられる。

 存在する事物は、互いに関与しあうことで存在を担保しあっているので、関与の濃度の差こそあれ、全てが「意味」をもち、「法則」が見出され、「名前」がつけられることとなるだろう。

 従って「存在」=「意味」ということができる。

 そしてこの「意味」は「意義」と読み替えることができるはずである。つまり「存在」にとって有用であるか、さほど有用でないか。という序列が生じるのである。

意義

 「意義」とは合目的的であるか否かを判断材料とする。しかし、「存在」にとっての「合目的的」とは何を意味するのか?

 「存在」は「存続」のみを目的とし、そのために環境との循環システムを構築するのであった。

 ※「存在」は「分節」によって「時間」という制限を持ったため、「存続」のためにはなんらかの活動をする必要がある。

 その限りでは「意味」は本来的であり「法則」は所与であり、「名前」は記憶のためにあった。この場合、意味は意義の意味を持たなかったのかもしれない。

 だが、人間は違った。人間は「存在」=「存続」以外の、「近視的欲望の充足」を、とりあえず第一義とし、「存在」の全てを、そのために「意義」をもつか、否かによって分別し、有用なものは奪い、無用なものは捨てた。「名前」はその区別のために有用であった。

 互いに存在を担保しあう存在を破壊しているという意識はどこまでも希薄な、「反ー存在」を志向する存在が、人間であった。

存在の目的

 もともと「空が存在態」を獲得する動きそのものには「目的」は無いと考える。それは、「空」が「分節(存在)」してしまう性状を持っている。というだけに過ぎない。(ここは、ずっと引っかかっているところだが、今のところこのように書いておくしかない)

 だが、このようにして生じた「存在態」は、「存続」しようという性状を有する。それが「意思」である。ただし、この「意思」はまだ、明確な個体性を有しない、横断的かつ流動的な「エネルギー」のようなものであると考える。

 このエネルギーが、分節を重ね、「一」であった痕跡を徹底的に消し去るほど、無数に深く分断されたところに、「大脳新皮質」が生じたのだと思う。この部分が、「存在態」に共通していたはずの「存続」という大きなエネルギーを「欲望」へ変換する機能を有していたのだろう。

 「空」が「分節する性状」が際限なく分節を繰り返せば、「大脳新皮質」を生み出す。その観点から、あらゆる世界宗教が「人間」を自然の最高位においている理由をようやく納得できそうではある。

 しかし、あらかじめ「反ー存在」を志向する存在態へ向かう仕組みを「空」がもっている、というのは非常におもしろいと思う。

おわりに

 『意味の深みへ』には、上記のような記述は無い。私は未だに「言語」を「存在の源泉」に置くことができないでいるから、「分節」と「言語」とのレベルを切り離したいと思っている。「未記名の意味」というものはあると思う。だがいわゆる「言葉」の「音」や「文字」そのものが「存在」や「分節」のエネルギーである、かのような意見には、納得できていない。

 だから、井筒さんの著作を、今のところは、このように読んでいるのである。