望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

理解するな、信仰せよ ──比喩としてのキリスト教

はじめに

 『ブッダの方舟』に常に立ち返る。仏教という智慧と自分との距離の指標となる本だからだ。

あなたは赦されている

 この本の中に『キリスト教は「believe」によって成り立つ特異な宗教で、このbelieveに相当する日本語というものはない』というようなことが書かれていたと思う。

 この部分を読んで思い出されたのは聖書の中の「見ないで信じる者は幸いである」というような言葉だ。キリスト教は疑うことを許さない宗教である。『神が天と地とを一週間で創った』という記述を疑念なく信じること。神の言葉をすべて無批判に信じて従うこと。科学的知見などを根拠に、理由を問うことは本来は許されないはずである。なぜなら、神は超越者として存在するからだ。

理解するな信仰せよ

 「信ずるものは救われる」と、キリスト教は言う。そこには、救われなければならないという現状認識がある。そしてその現状は、すでに許されていることを失念し、許しを与えられた感謝の念を失念しているために引き起こされている。神を思い、イエス・キリストを思うことは、その救いを思い出し、神の子の恩に報いる生き方をすべきだということを思い出す、ということに他ならない。

 予め与えられた赦し。これを「信じるか否か」こそが、キリスト教信仰なのであるといえると思う。

赦すも赦さぬもない

 (私の)仏教に「believe」という概念の入る余地はない。密教においても、禅においても、「信じろ」と強制されることは(最終的には)ない。修行の途中で徹底的に導師を信じることを約束させられるというが、最終的にはその導師の教えそのものを疑い、引っくり返していくことになると、同書や中沢新一さんの著作には書かれていたと思う。

 仏教には「信仰」すべき対象が存在しないし、創造してくれた恩もなければ、赦されたという実績もない。そもそも「原罪」というものが成立しない。あえて言うなら、「存在してしまったモノの苦」に苦しんでいる状態を「失楽園」というレベルで表現しているといえなくもないが、実際のところ、「存在するモノの苦」とは、エデンの園にいたとしても免れるものではない。

失楽園」=「分節」

 「神=エデンの園=絶対無分節」と捉えなおすことで、キリスト教は仏教を具象的に表現したものだと考えることもできる。その代償として唯一神が導入されたのだと。

 絶対無分節であったエデンに、神が神の形にアダムを作るという自己分節を起こした時、そこに響いていた声は、我々の言葉とは違う下意識の、言語アーラヤ識の宇宙に響く、原初の言葉であったと考えられる。(この「言葉」については、現在読んでいる最中の『意味の深みへ(井筒俊彦さん)』の考え方が援用できるし、以前に取り上げた『エコラリアス』なども、もう少し面白く読み直すこともできそうである)

 だが、自己分節は止まらない。神はアダム一人では寂しかろうとイブをも創造する。そこに「苦」が始まる。エデンという無分節に決定的な分節が起こる原因となったのが一から二となることであった。神は分節を避けるため、イブをアダムの肋骨の一本からこしらえた。つまり、出自は同じであるということで、二であっても一であると、配慮したものと思われる。その一体であったはずのイブが知恵の実を食べてしまい、「個」を認識してしまう。マナ識の誕生である。蛇がもたらした知恵は、合一ではなく分断を促すタイプものだった。これを知識と読んで、智慧と区別してもいい。

 楽園追放とは、エデンの園からの追放ではなく「真如の分節による存在の疎外の発生」を意味している。

 ※バベルの塔においても問題となったのは言葉であった。神は人間の不遜な行為に怒り、徹底的に人類の言語を乱した。という。だが、神が「真如」の比喩であったとすれば、バベルの塔を壊したのは「神」ではないことになるが、それはまたいづれ

 キリスト教とは、仏教のまずい比喩であると思う。「まずい」というのは、比喩が比喩としてではなく「(荒唐無稽な)事実」として「機能」してしまったからだ。だから、キリスト教は「believe」なのである。比喩を事実として受け入れなければならないのだから。

 その結果生じたのが「原罪と赦し」であり、隠されたのが「真如」であった。

 

信仰するな、知れ

  もし、宗教に信仰の対象が不可欠であるとするのなら、(私の)仏教は宗教ではない。だが、宗教が「哲学や科学では救われない漠然とした生の不安を救う働きをもつもの」であるすれば、(私の)仏教はまさしく「宗教」なのである。

 それは、信じること、を強制しない。ただ、「事実を知りなさい」というだけである。ブッダの悟りとは、「単に、事実を知ること」であった。

 だから、仏教は科学と方法を共にできるし、他の叡智としての宗教、哲学とともに深化することができるのだ。

 ただ、目の前にある事実に向かうこと。それが仏教の姿だと、私は思っている。

さいごに

 つきつめていけば、いづれ同じひとつの海。そんな気がしている。