はじめに
旧約聖書の「コヘレトの言葉」は名言の宝庫だと聞いた。だが、旧約聖書にそんな「書」があったろうかと検索してみると、かつては「伝道の書」と題されていたものだと分かった。なぜ、名前が変わったのかについてもWikipedeiaに詳しい。
読んでみると、なかなか仏教である。
ちなみに、フットルースで引用された箇所もここからだった。
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、 (3:4)
今回は、ここからいくつか言葉をストックしておこうというブログだ。
ストック
伝道者は言う、
空の空、空の空、いっさいは空である。(1:3)
世は去り、世はきたる。
しかし地は永遠に変わらない。(1:4)
先にあったことは、また後にもある、
先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。(1:9)
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕らえるようである。(1:14)
わたしは知っている。すべての神がなさる事は永遠に変わることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。(3-14)
わたしはまた人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせるのである」と。人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。みな一つの所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。(3:18-20)
また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互いにねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕らえるようである。(4:4)
人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある。
見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜った短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである。(5:17-18)
言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。(6:11)
物事の理は遠く、また、はなはだ深い。だれがこれを見いだすことができよう。わたしは、心を転じて、物を知り、事を探り、知恵と道理を求めようとし、また悪の愚かなこと、愚痴の狂気であることを知ろうとした。(7:24-15)
見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである。すなわち、神は人を正しい者に造られたけれども、人は多くの計略を考え出した事である。(7:29)
地の上に空なことが行われている。(8:14)
あなたは身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざをしらない。(11:5)
ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。(12:7)
おわりに
仏教のテーマに重なる世界観が如実に表れていることが分かる。
「神」とは「ダルマ」であって、「神の愛」とは「慈悲」に重なる。仏教は無神論といわれるが、それは世界が「縁起」という「システム」と捉えるからで、その「システム」を「摂理」と言い換えれば、とたんに「人格神」が出現する。
宗教を日々の苦しみを呑み込む処方箋としてとらえるとき、そこには「癒す手」があってほしいのは当然だ。だが、仏教はそのような「癒し」を否定する。だが、それがいかに真実であったとしても、そのようなハードボイルドでは民衆がついてこられない。だから人格神ブッダを安置する。ブッダが外部に神格化したら、それはもう仏教でなくてもよくなる。だから、あらゆる宗教は仏教で解釈できるし、キリスト教もまた仏教であっても何ら差支えが無くなる。
つまりは、人生はあまりに苦しいので、民衆はその苦しみを生きる理由、大義名分が欲しいのである。
仏教においては、そのような大義名分などもちろんない。そういった善悪的なものが現れるのはすべて「社会規範」としての役割を担うときだけである。
追伸
イエス=キリストは十字架にかかって人の子として死んでから、神の子として復活するまでに三日かかった。これは世界を創るのに要した時間の半分だ。この三日間で、イエスの身体になにが起こっていたのかについて、今興味がある。