望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

不可説不可説転 ―実無限の寒天

はじめに

 華厳経が好き。豪奢で華麗だから。

 「善悪」とか「仏性」とかにはあまり興味はなくて、華厳経に表れてくる「宇宙」が好き。人間なんてどうでもいい。人間が人間になる以前のことが書いてある部分が好きで、人間が人間でなくなった後が書かれている部分が好き。

『性起品』は避けては通れないけど、『十地品』とか『入法界品』は読み飛ばす。

 そして、華厳と法華とどっちが偉いか、みたいなのもどうでもいい。法華経は悪い意味で人間的すぎて好きじゃない。

出典と姿勢

 『仏教の思想6 無限の世界観〈華厳〉 鎌田茂雄・上山春平 昭和44年1月31日初版/昭和46年6月20日4刷 角川文庫』 を、メインテキストに、おなじみの『ブッダの箱舟』とか『意識と本質』、そして『フィロソフィア・ヤポニカ』あたりを併読した時の記憶を手繰りながら、漠とした宇宙の印象を書き留めたもの。

 

寒天を想像する

 実無限の(広がりをもつ)寒天を想像する。(広がりを持つ)と括弧書きにした理由は、(そこに)「広がり」などないから。(そこに)と括弧書きにした理由は「そこ」などという場はないから。

 このように「実無限」をこの世に表すのは面倒くさい。この世界で想定可能な「無限」とは「可能性無限」になりがちだから。数学でなら「実無限」を表せるみたいだけど、数式によって表される宇宙は、文系の私には理解できない。私は小説にしてもらわないと、世界を理解することができないから。

渦が生じる

 で、実無限の広がりをもつ寒天を想像する。それは分割不可能で部分を持たない不変の「一」。その表層に渦が生じる。理由は分からない。寒天はそのような渦を巻く性状がある、としか。

 渦は距離で距離は時間だ。ぐるぐる回る渦はそれだけで構造を成す。上下内外が生じる。あらゆる点で「部分」的だ。これが存在(=物)

相対的な宇宙

 渦からは周囲がループしているように存在している。実無限に生じた部分は「可能性無限」に閉じ込められる。

 寒天の渦はもともと寒天だ。だから渦は寒天である。そして寒天のような性質をもっている。これが「色即是空」(因みに、般若心経は長いのが好き)

世界に一つだけの開放系

 渦は他の全ての渦に干渉する。どの渦も他の渦を映している。これ「縁起」。

 消え去る渦があり生じる渦がある。大きな渦があり小さな渦がある。すべては相似形ですべてが異なっている。これらの「渦=存在」に善悪の別はない。すべては寒天だから。渦が人間だとか、生命だとかいうこともない。有機物も無機物も、すべては寒天の渦だから。

輪廻

 実無限の寒天は表層に渦をまく性状をもっている。渦は消え、また生じる。これ「輪廻」。渦は全て相似形だが全て異なっている。だから前世の「名」のまま生まれ変わることはありえない。

 生前に勉強したとか、徳を積んだとか?

 悟りを開いて解脱するとかいうのは「存在」という寒天、もとい観点からすれば後付けだろうな。寒天は決して汚されないから、渦として存在が、その社会で「悪」を行ったからといって、渦そのものが汚染されることはない。旋毛曲がりになるのが関の山だ。渦は消滅し、また生じる。渦がおかしな回転をしていたら、その近辺に生ずる渦にそのおかしな回転が伝わるものだと?

薫習? どこに? 

 寒天は不変。渦は消える…いや、完全には消えないうちにまた渦が生じる。その消えない渦が、阿頼耶識だと考えればよいわけか、ナルホド。

解脱

 で、「阿頼耶識=残渦」を完全に消し去ることが解脱ということになる。悟りによって、そのような消滅のしかたが可能になるわけか。で、解脱とは前世の因果を断ち切ること。悪の因業をもって生じる渦をなくすことだ。

 ところで、「輪廻」を「転生」というと生命あるものに生まれ変わることと誤解されがち。「存在」に無機と有機の区別はない。来世は石かもね… 石は長いよね…

 だ・け・ど、大乗が全民衆の解脱を目指すのだとすれば、渦を残さず消えるだけでなく、寒天そのものの性状を変化させるしかない。はじめに生じる渦、それを巻き起こしたらしい風。それを止めねば。 それが可能か? 分からない。

同じ小麦粉

 この宇宙、この人間、この自分。それらはあるがままで実無限寒天なのだと説きたいのはよく分かるし、それが汚染されているせいで、それが見えなくなっているのだという理屈にしたいのも分かる。でも、渦を巻いたか巻いていないかかの間には、「非存在と存在」「無限と有限」「不変と変化」という、絶対的な境界が存在する。

 パンもピザもうどんもカステラもケーキもパスタも、小麦だよ。という説明が力をもたないように、渦は寒天だよ、人は仏だよ、というのは、それは単にそうであるという事実の説明にすぎず、なんの力にも、なんの保証にもならないんじゃないか。

慈悲

 善悪は、輪廻する寒天の渦たちが、かつては親兄弟であり自分自身でもあったものとして捕らえる『慈悲心』」に沿うか否かで判断できる。寒天からは「大悲」として、存在物からは「縁起」として映るんだね。これはともに「慈悲」を生むもの。これは、存在論的に納得できるし、神も愛も不要だ。

絢爛豪華なパラドクス

 華厳経は繰り返し、巨大な数字、巨大な時間をぶつけ、極大と極小とを自在に裏返してしまうような宇宙を投げかけてくる。それは、実無限内部にある有限が陥る可能性無限という知を、存在の限界として提示し、それを打ち壊して実無限を悟らせるための方便だと思ってるので、これが禅の「不立文字」「禅問答」に連なるのかも。

サッふれる頓悟

 クラクラするような無限の万華鏡のなかで、狂い笑う。そうやって、普段は渦を保護する膜のせいで触れることのできないでいる実無限寒天の冷ややかな、ブニョンとした気味の悪い感触に、突然、サッと触れること。そんな頓悟がいいな。

おわりに

 ところで、不変の(広がりをもつ)寒天の「表層」って何処? ってところに引っかかった皆様。表層なんてあるはずはないのでした。だからそこに渦が生ずることもないわけで、そもそもが「実無限の寒天」なるものも方便にすぎなかったわけだから、つまりはこのブログそのものも、立脚点がないようなものだったのでした。

でも、華厳経はおもしろい。とくに仏教色を脱色した部分が。

 宗教は全て現世の苦しみを軽減するために生まれたから、道徳教育的だったり、自己啓発的だったり、社会改造主義的だったりするけれど、仏教は、そこから「現世のことはどうでもいいんだよ」というところまで突き抜けた世界を垣間見せてくれるから、おもしろいの。