望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

華厳経の「数論」と落語「時そば」という問題提起

はじめに

『現代人の佛教4 華厳経の世界』末綱恕一著 1957.3.15 初版 1976.3.20第五刷 春秋社刊

を読みました。中沢新一さんの『レンマ学』の「華厳経の数論」の項で引かれていたからです。第一篇は華厳経の歴史的背景と、各品のガイドですが、細かなところに入り込みすぎず、「華厳経とは」という大局を常に念頭においているので、たいへんに分かりやすかったです。

西洋思想批評

 そして第二篇においては、華厳経による西洋思想批評が繰り広げられ、たいへんにエキサイティングです。この本と中沢新一さんと、井筒俊彦さんとがあれば、歴史的かつ世界的な「華厳経」の座標は完璧に位置づけられるものと思います。

 とくに、西洋哲学の「客観」という「独断」を華厳経の「主観」の絶対的優位性によって批判していくところが、私には新鮮でした。これまでに読んできたものの、基礎となる捉え方がここにあったのだなと感じました。

 西洋では実存主義に至って始めて認識の主体性に注目するようになった。

 とし、そこから「体」と「用」という捉え方を用いて、佛教における思惟の主体性を解き、

「日常性に没入して小我を出ない個々の主観に世界を把握することができるはずはない」

と断じます。

主観と客観

 主観と客観については、西洋哲学的見地、俳句の「写生」による見地、脳科学的見地、とさまざまなフィールドで考えていかねばならないと思っています。

とくに、一般的な「客観」が「多数の主観」と混同されることを、私はとてもこっけいだと思います。他者が理解不能であるとの前提に立てば、「客観」は不可能だからです。それはただ「厳密に繰り返される実験データ」として、それでも不完全にしか担保されない「客観」としてのみ可能なのだと思います。

「客観」は詭弁です。みな安易に「客観」といい、そこに「主観」として「エゴ」をくるみこんで、「一般的にはさ」「普通はさ」という枕詞をつけて、自分のエゴを消し去ろうとします。それは社会的な防衛策としては正しいのですが、それがいわゆる「客観」ではないという事実は念頭におかねばならないことだと思います。

時そば

 華厳の数論。『レンマ学』のそれを、私は断念しました。数学によってあらわされることも、言葉によって表されることも、等しい。だって、一即全。全即一。の全即全入こそが華厳だもの。だから、数論はパス。得意な人は数論から理解すればいいでしょ。と諦めたわけです。

 本書ではその原型となった部分の解説があります。

その部分を私なりにかいつまんでまとめたのが以下のメモです

2+2=4の4と2×2=4の4とでは多様性が違う。
足し算では2と2は「物」としてある。そして「物」には必ず違いがある。
掛け算とは、2個の物と「全く同じ2個」を2回足せ、という不可能を命じている。
足す数は物だが、かける数は物ではない。

このことから、掛け算とはメタ的であり、掛け算とは抽象的であり、掛け算とは「個」と「個の多様性」を度外視した方法だということがわかる。
掛けられる数として置かれた「物」は、すでに「物」としての多様性を奪われており、そのため簡単に増殖できる。


これは「物」の「空」化を意味しない。
抽象化とは概念的切り捨てでしかなく、それが可能なのは1+1+……=∞(これは割り算である)の世界のみだ。
「空」は何一つ切り捨てずに「一」である、1+1=1であり、多様な1であり、掛け算の不可能な1である。


時そば
銭と時という性質の異なるものが数に混同されのは、一銭を一枚ずつ数え上げていくと枚数と貨幣価値とが一体となり単位を失念するからだ。数字=枚数=貨幣価値の短絡が完成するタイミングで、時を尋ねれば、時は数として認知され割り込みが成立する。
単位は重要だ。


華厳においては、乱暴にいえば、一は十であり十は一である。だが、一銭で十銭のものは売ってもらえないし、十銭出したのに一銭の価値しかないといわれれば喧嘩になる。にもかかわらず、法蔵さんは、貨幣を例に出して説明した。その意図を熟慮しなければならない。

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問題なのは、最後の部分です。なぜ、貨幣を例に出したのか。

貨幣もまたロゴスとレンマという両相によって現れ機能しているものだと思います。それは、言語のように「業」を動かします。あらゆるレベルで相即相入を具現する華厳は、この世界でこの身体を環境とするわれわれにとって矛盾だらけです。貨幣に立ち入るなら、これとは別にシリーズを考えなければならないでしょうから、今回はこの問題提起のみということで。

 

「数を時間的に見れば序数。空間的に見れば基数。両者はいわゆる矛盾的自己同一の関係。(同書 p.135) 

 

自性の数というのは、単に空間的概念固定的に見たときの数。時間的力用から見れば縁性又は縁起の数となる。(…)華厳思想において、時間的主体面が絶対優位を占めている(同書 p.133)

 

一中の十と十中の一と相容無礙にして仍て相是ならず。

 

おわりに

この世においては、このように複雑な関係性を示す数ですが、それはこの世界がやはりどこか無理矢理成り立っているのだろうという気がしています。存在とは矛盾にほかならない。だから、時そば が華厳思想を示していたりもするのだとおもえば、それは楽しい限りです。とふんわりとまとめて、今回はおしまいです。