望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

語句をシェアしてパズルのように ―意味を窯変させる技法

はじめに

自動生成される俳句や短歌。それらは、語と語のなじみある繋がりを無視できるところに良さがある。日常の脳で、語と語をそのような関係性に置くことは規制されてしまう。この規制が言語ゲームのルールだと思い込まされてしまうネイティブにこそ、ランダムにカードをめくって生成される語と語の干渉がもたらすインパクトを大きく感じられるだろう。

 

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読者と作家

しかしながら、読者として有意義であることと、作者として有意義であることとは違うのではないか。わたしはずっとそう思ってきた。

まったく無関係な語を、適当に組み合わせて、あたかもパズルのように一句なり一首なりを合成する製作過程に、いったいなにが得られるというのか、と。

ある気づき

だが、そのようなわたしは全く保守的で、いまだに内面を信じており、とっくに失われている物語を信奉していたのだということに気づいたのである。

以下のリンクが、その気づきをもたらした。

note.com

上記ワークショップによる子供たちの俳句

あまがえるぴょんぴょんとんで落としあな ニャオリン

なつぼうしあつあつあついきもちいよ ばどん

かたつむりかやぶきやねとおうちのき ひまんけた

アゲハチョウかがやきだした雲のいろ みおり

あげはちょうひとつひとつにたまごあり さーもん

ありいっぱい道を進めばくらいへや ニャオリン

みずあそびあめふりそうなくもりぞら ばどん

半ズボンどうでもよくていしつみき ひまんけた

うさぎがぴょんぴょんあまがえる みおり

かたつむり雨ふりそうで川に草 さーもん

くろいありそっとしといてきっとウソ ニャオリン

なつぼうしぽかぽかあついきもちいよ ばどん

半ズボンとくべつな日のおにがしま ひまんけた

あまがえるじっとすわって川の道 みおり

水あそびかがやきながら川にいし さーもん

つゆぐもりしばふでねむる森の中 みおり

これらの俳句はとても好きだ。とくに、

ありいっぱい道を進めばくらいへや ニャオリン

かたつむり雨ふりそうで川に草 さーもん

くろいありそっとしといてきっとウソ ニャオリン

半ズボンとくべつな日のおにがしま ひまんけた

は、自動生成俳句っぽくあり、響きに「現代俳句」を感じられる。こんな俳句をコンスタントに生み出せたらどんなに豊かだろうか、と羨ましくなった。

語句をシェアしてパズルのように

これらの俳句がどのように作られたのかは記事を確認していただきたいのだが、そのように作ったからといって、その句に個性が失われているかといえば決してそんなことはなかった。重要なのは、どの語句を選択するのか、どのように並べるのか、そして微調整するとすればどのように行うのか。

俳句や短歌をパズルのように作り続けた先人として、寺山修司さんを思い起こす。そして、寺山さんの用いる語句をカルタのようにして売り出し、それを自在に並べなおして新しい作品を次々と生み出すとき、その著作権は誰のものになるのか? という議論はプロに任せておけばいい。わたしはこれらの俳句を読むことができて、とてもうれしかったし、新たな世界が広がったという実感を得ることができた。それは、漠然とした自己啓発などではなく、「あり」が「いっぱい」「道」を「進」んだ先にある「暗い部屋」のような、ずっとありつづけたものでありながらこれまで気づかなかったコトであり、「かたつむり」に「雨」を予感したとき「川」に流れる「草」から得られる共時性の感覚なのである。それは漠然としたものではない明確な何かで「モノ」としての質量と空間を占めた存在そのものなのだ。それは世界から取り出した語句を再配置することによって得られる手触りであり手ごたえであり、この感覚を得られるのであれば、パズル式な作り方は、まったく敬遠されるべきものではなく、むしろ積極的に取り入れていくべきものなのだと、わたしは確信したのである。

写生とパズル

 では、わたしが常に主張している「写生」と「パズル式合成」とは相いれるものなのか?

 わたしは「相いれる」と主張する。主観や内面や成長などといった無駄なモノを排したところに「写生」はある。風景をありのままに句に写すとき、作者は風景を語句に変換する。そこにどのような語句を見出し、どれを、どのように配置するのか。その風景の共時性の手触りをもっとも効果的に象徴させるための五・七・五とはどのように配置するべきなのか。この過程こそが「写生」であり、当たり前の風景を当たり前に叙述することが「写生」なのではない。むしろ、このようなパズル式でなければ、ネイティブ日本人は容易に「説明的」俳句に陥ってしまうだろう。

言葉

最果タヒさんの本を読んでいる。

www.littlemore.co.jp

最果タヒさんは「詩の言葉」と言う。

今の日本語は、できるかぎりはっきりと、わかりやすく、誰にでも伝わるように整理して表現することが求められる。けれど、私にとって詩はその真逆にある言葉だった。わかりあうことなんてできないような、もやもやとした曖昧な部分を、わからないままで、言葉にする。「わからないけれど、でも、なんかいいなって思った」と言ってもらえるとき、わたしはその詩がかけてよかったな、と思う。

(「前掲書」p.43より)

 

 

ここでの「言葉」とは「語」と「語」の連なりのことだと思う。散文においては、この連なりは「文脈」として「意味」に従属していく。だが「詩」は同じ「語」を用いていても、連なり方がまるで異なるのだ。それは「意味したいコト」が散文とは異なるからである。「詩」の連なりのうちにおかれた「語」は従来の意味の囲みを離れて、じつに妖しく美しく輝き、野性味溢れる芳香を放つ。飼いならされた「語」に野性を取り戻させる、という贋の神話性こそが「詩」の表層である。「文脈」によって「意味」を示そうとするのではない。「語」と「語」のブレンドによって「存在の香」を放つことに、わたしは「詩」を感じる。

意味

前掲書からもう一か所引用する。

(しかしそもそも言葉にとって意味こそが核なのか、私は疑問です。言葉とはもともとは鳴き声であり、感情であり、感情とは、そもそもが曖昧なものである。「共感」のために明瞭かされたものは感情ではなくて、ただのアイコンだ。だとすれば、意味なんていうくっきりはっきりしたもののために言葉があるとは思えないし、リズムやメロディが意味を忘れさせる瞬間は「言葉」として本質的ではないかと思う。わたしは正直、リズムやメロディこそが核で、いいは枠だと思っています。)pp.22-23より

しかしやはり、言葉は意味を伝えるために整備された、とわたしは思う。ただし、柄谷行人さんの『探求Ⅰ』などにあるように、「意味」があり、その「意味」に「言葉」をリンクさせたのということではない。「言葉」と「意味」とに区別はなく、分離不可能だからだ。

さらに重要なことは「意味をもつ音のみが言葉を称される」という点である。意味を持たない音は言葉とは見なされない。だからこそ「言葉=意味」の図式を描きやすくなり、=の左右がそれぞれに存在しているとの錯覚を招くのだ。

おわりに

言葉を離れて意味は存在しないが、意味を離れて言葉は存在可能である。言語を用いた表現を行おうとする場合、このことを忘れてはならないと思う。さらに、「意味」を窯変させることは世界認識を更新することであることも、肝に銘じつつ、今後もせっせと存在のパズル合わせにいそしんでいこうと思う。