はじめに
芭蕉は支邦風の思想家で、物質には満足してゐなかつた。しかし、ほろぶことの迅いものに、限りない生命を観たので、地上を愛することが大きかつた。無限を、無限でないものの中で愛した。『調和の詩人』三木露風
上記引用は、今回のブログに直接は関係しない覚書だ。
さて、
俳句や短歌の入門や講座では「説明調」「当たり前」「月並み」を避けよ、という。もちろん、こういう俳句や短歌はつまらないので、至極当然な指摘なのだが、元来「言葉」というものは、「説明」「当たり前」「月並み」を目的として用いられており、それらを前提として「理解」という感覚を起こす媒体なのだ。
だから、このような道具で「斬新さ」を突き付けられた時、インパクトを感じるのだ。
短詩のジレンマ。と題した今回のブログは、とくに「俳句」「短歌」のみならず、文章全体に当てはまる「当たり前」のことを記すことになる。「短詩」において、その「当たり前」を前提とした「インパクト」がよりはっきりと感じられる、という意味で、あえて「短詩の」とした次第。
言葉は全て固有名詞であること
「どうして?」という問いとつきつめると「どうしても」というところに行きつく。言葉で説明できるのは言葉だけであり、言葉とは究極的には全て「固有名詞」だからだ。「富士山」は「富士山だから富士山」なのであり「北岳」でも「妙義山」でもないがゆえに「富士山」なのである。(cf.柄谷行人さん)
では、富士山の有名なこの文を考えてみる。
「当たり前」以前以後
『富士山には月見草がよく似合う』という文に用いられている言葉は、すべてごく普通の語彙をごく一般的な意味において持ちいている。にもかかわらず、この文は斬新だったし、語り継がれる名文ということになっている。
この文が「説明的」でも「当たり前」でも、「月並み」でもない理由は、「富士山」に「月見草」を取り合わせ、さらに「よく似合う」と言い切った感覚の「斬新さ」だろう。なおかつ、このように示されることにより、読者に共感を与えることができたという点が重要だった。
この文の後では、「富士山に月見草」は「月並み」になった。つまり、太宰治さんの気付きにより、この感動は「一般化」されたのである。
ところで、わたしはこの文の「よく似合う」の部分が好きではない。俳句・短歌においては作者の主観は排されるべきであり、それが似合うか似合わないかを押し付けるべきではない。という感じ方がしみついているからかもしれない。太宰治さんはこうした押し付けの強い人でもあり、それが多くの共感を生む源になっている。だが、それはまた別の話だ。
ところで、当たり前ではなかった当たり前が示されたとき改めて当たり前になる、という事例をかつて書いた。
俳句や短歌では「当たり前」を排する必要がある。だが、書かれた後に「当たり前」であったと気付くものと、書かれる前から「当たり前」だったものとは雲泥の差があるのだ。
固有名詞の抽象度
見るもののなかりし春の十二畳 高野素十
当たり前。トリビアリズム。見たままをただ書いただけ。写生を狭めた人。などと批判されることも多い、我が敬愛する高野素十さんの俳句だ。これは写生句のみならず、俳句そのものの真骨頂といえる代表句ではないかと、先日ふと思った。
和室の十二畳だろう。昔の家は二間続きの和室が当然のようにあり、奥には床の間と仏壇が備えてあったりして普段は使わず、冠婚葬祭や、盆正月の親せきの寄り合いの際に膳を設えたり客間として用いたりしたものだ。そうした行事がひと段落した春の日、その十二畳には何もない。という程の感じではないかと思うのだ。
このような情景を「詩」にしうる形式が「俳句」をおいてあるか、と思う。
この俳句と、さきほどの太宰治さんの文とを比較すると、この俳句のほうが、表面上は抽象的である。抽象的、という言葉がそぐわなければ「一般的」でもいい。「富士山」「月見草」という固有名によって限定されていた太宰治さんの文と、「春」と「十二畳」という一般名のみを用いた高野素十さんの俳句。果たして、「具体的」なのはいずれか?
わたしにとって、より身に迫り、ありありと情景が浮かぶのは「俳句」の方なのだ。どこの、どんな「春」の「十二畳」なのかは一言も「説明」されていない。だが、このような「見るものの何もない」「春」の「十二畳」を、わたしは記憶の中に見出すことができる。一方、「富士山」と「月見草」という固有名によって示された両者が「よく似合う」という太宰治さんの文からは、「富士山」の絵葉書と「月見草」という図鑑の写真しか想起できず、富士山と月見草のコラージュというちぐはぐな感じがするのだ。
無論、こういう感じ方は読者の経験に依るのだと思う。だから、太宰治さんの文が駄目で、高野素十の俳句はよい、といいたいのではない。
理解は読者の経験に依る。というところが肝心な点なのである。
ツンデレとは
言葉が固有名である以上、言葉が意味するものはある程度固定されており、その固定された意味において用いられる言葉は、その言語によってコミュニケートする人々にとっては自明であり理解可能である。同時に、人間は大脳新皮質の働きによって、言葉を、意味と音と時には共感覚によって横断的に感受することができるため、固有名同士の共鳴を錯覚することが可能だ。それはつまり、地口、押韻、比喩などによる、意味の流動性が認められるということに他ならない。
一般的な意味を逸脱して言葉を用いることによって多大なるインパクトと共感をもたらす例として、幾度も登場するのが佐藤優樹さんだった。
短詩において顕著なインパクトを与えるためには、どうしても読者の経験に頼らなければならない。ツンデレとはこのことを指している。
書かないことを感じさせること
『無限を、無限でないもののなかに愛した』という冒頭の引用が、案外、効いてくる。
古池や蛙飛び込む水の音 松尾芭蕉
これが写生か否かはどうでもいい。この俳句は、読者によっては「当たり前」なつまらない情景だろうし、また、別の読者にとっては近代俳句の金字塔と絶賛されるものだろう。
春一日鴉カアカアカアカア鳴く 高野素十
こちらはどうだろう。こちらもツンデレではないか。
さいごに
わたしは、短歌や俳句の鑑賞にかこつけて、読者の経験(体験と知識と考え)をこれでもかと主張する姿勢が好きではない。なぜならばそれは「言葉」による「説明」に過ぎないからで、端的につまらないからだ。「富士山には月見草がよく似合う」と主張されたところで共感できない人にとっては「はあ……」としかならない。ここで説明と評論と批評の違いについて考えを広げる必要もあるのだがそれはまた別のお話で。
説明と描写の違いも考えなければならないし、言葉が固有名だということは言葉はアイコンであり目録でありしたがって、象徴でもあるという、具体的=抽象的 という観点も突き詰めたいところである。
それでは。