望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

梵鐘一打 ―セレクション俳人07 岸本尚毅集(邑書林 2003.6.10) その2

はじめに

 前に、「季語を殺す」という観点で、本書巻末の散文の一つをまとめた。

 

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今回はその次に掲載してあった散文のまとめ。

俳句の中の俳諧

この散文の初出は「國文学(2001.7)」とのことで、テーマは「何をもって俳句は俳句か」というものである。

1.短さ

短さが俳句の弱点だとすれば定型・季語・切れ字はそれを克服するための武器だ。

氏によれば、季語は濃密な情報を埋め込む集積回路で、定型と切れ字は小さなものを大きく響かせる増幅器・共鳴器、ということになる。

 だが、短さを「弱点」と捉え、それを克服するためにそれらがあると考えていては俳句の本質はみえてこない、という。

 

俳句の短さを強みに転じうるのは発想そのものである。 

2 俳句の発想 自由律と詩

 氏はここで、自由律を引き合いに出し『武器を捨て丸腰になった俳句』という。

まつすぐな道でさみしい 山頭火
墓の裏に廻る 放哉
ずぶぬれて犬ころ 顕信

 そしてこれらと対比し、八木重吉さんの詩を挙げる。

「路をみれば/こころ おどる(路)」
「山吹を おもえば/水のごとし(山吹)
「赤い 松の幹は 感傷(鑑賞)」

俳句の形式を捨てても俳句らしい発想は残る。それが〈俳句の中の俳諧〉というものではないだろうか。

3笑い(小咄)

 続いて氏は、短くなければ表せないものとして、小咄を挙げる。
 これらについては、「川柳」「狂歌」はあるが、短さは滑稽味の表現に適していることは間違いない。という氏の意見に異論はない。

口あけて腹の底まで初笑い 虚子
朝顔にえーッ屑屋でございかな 虚子
茎右往左往菓子器のさくらんぼ 虚子
小便に糖が出て花に汗が出て 青畝
招き猫水中の藻に冬が来て 爽波
灯火親しむに涎を拭ひつつ 爽波
ゑのころやわが発想にわれ頷き 爽波
たんぽぽをくるくるとヤクルトのおばさん 爽波
犬入院猫退院の月夜かな 爽波

虚子曰く

「能も狂言も写生です。写生の極致です。(「俳句への道」)」
「真面目な凝視のうちに自ら生れ来るものに本当のユーモアはあります(同上)」

そして、

 俳句の笑いは、微笑。そしてその後には沈黙が待っている。(連句とは違い一句独立だから)連句なら「間」となるが俳句では沈黙となる。だが、沈黙とは物理的静寂ではなく、自分以外の存在を意識しながら沈黙している状態だ。と蓮歌との違いを論じる。

 俳句は連句の中に埋もれていた「短さ」を先鋭的な形で取り出し、連句の中に潜んでいた「間」を「沈黙」としてさらに研ぎ澄ました。

4他力

 俳諧は座の文芸であり、互いの他力にささえらえれたアンサンブルである。俳句は他力によって授かるもの。俳句は自分の力でつくるものではない。言葉の助けを借りて宇宙に遍在する生命力を一句に呼び込む、という氏の考えは、単純に「俳句の理解」に特殊な訓練と共感とが必要だというにとどまらない。作句においても「他力」は必須である。これは写生に重きを置く作句法を取る者にとっては自明である。

 そこに親鸞の他力本願と俳句の接点がある。
俳諧の他力を信じ親鸞忌 浅見けん二

5言わずに済む

俳句とは「言わずに済むことは言わずに済む」形式である。』

 この指摘は、当然であるようでいて非常に、非常に重要だと思う。

 その上で氏は、

俳句が沈黙と短さという自家中毒を免れるためには、どうしても他者・他力を必要とする。その他者・他力は人間でなくてもよい。「花鳥風詠。天地有情」と虚子はいう。季語はその際の交流チャンネルだった。

まとめ

短さと笑いと沈黙。そして他力を必要とする性質=俳句の遺伝子

おわりに

梵鐘一打、響きはいつまでも伝はつてをる。さういふ句であるべきである(虚子俳話)

おまけ

岩田由美氏による岸本尚毅論 抜粋

岸本の句が現代の俳句に対してどんな意味を持つのかは私には判らない。写生という乾きかけた雑巾を絞ったのかもしれない、と本人は本気か冗談か解らないような事を言う。
 輪郭のくっきりした景色が浮かぶ句を写生句と呼ぶならば、確かに岸本の句は写生句だ。吟行も大好きだし「てにをは」の一字を入れ替えて句の鮮明さを増そうとする努力惜しまない。
 しかし岸本の写生は、たとえば昆虫の足の動きを分析して描くようなものではない。以前は「景色を追いかけても絶対に追いつかない。言葉を罠のよう立てて待っていると景色の方から飛び込んでくる」とよく言っていた。近年はますます一句の情報量が減り、具体的な季題とあとは句の響きを整える言葉だけで句を作ってしまうこともある。もともと言葉に重心のかかった体質なのだ。言葉だけでは自分の句の世界が細く枯れてくることを怖れた岸本は、写生を通じて現実の豊かさに根付こうとした。

非常に、詳細で示唆的な内容であると思う。