望月の蠱惑

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俳句にとって誠実さとは何か ――プレバト20201105 村上さんの句より

はじめに

プレバト 2020年11月5日放送分で、村上さんの

秋麗チョコスプレーの淡き影

の、「の」が「に」に添削された。

 村上さんは、添削後の俳句の良さは認めたようだったが、「それでも僕の着地点は「の」だったんですよ」と言った。

 僕は「の」が「着地点」だった理由を、勝手に推量し、「俳句にとって誠実さとは何か」という問題を考えずにいられなかった。

 この句に関する村上さんの発言を、例によってうろ覚えながらひも解いていくことからはじめたい。

影はあるはず

 村上さんは、この句の説明(講評前)で

地面に影がくっきりと映っている。そこにはチョコスプレーの影を見分けることはできないが、影は必ずあるはずで、それでチョコスプレーをじっと見るとそこに影が、やはりあった

という意味のことを言っていたと、僕は受け取った。

 そして、梅沢さんと先生によって「の」より「に」の方が良いと指摘されたのである。

まずは、「の」と「に」の選択について

 「に」は気づきである。「気づき」が命であるという俳句はあり、そういう俳句は、インパクトをもって輝く。今回も「に」のほうが断然よい俳句だと僕も思う。しかし、村上さんは当然、「に」か「の」かを熟慮して「の」を選んだ。

 僕はそこに「秋麗」の季語の本意に、作者の「気づき」という「動き」を残したくなかったのではないかと考えた。

 「に」は「主観」の籠る助詞であろう。下五が「淡き影」という体言止めになっているのは、「淡き」という主観を弱め、事実としてそこに淡い影があるのだ、というだけのことを表そうとしたためだ。「影淡き」では、影とそれが淡いという二つの気づきが重なって、うるさくなる。だから、下五の語順は誰も触れなかった。

 「の」から「影淡き」であれば、チョコスプレーという小さなものの些細さ、儚さ、が主となり、「に」「淡き影」では、小さな些細なものにも、「淡くとも」ちゃんと影があるのだという、存在への崇高さ、尊敬がにじみ出てくる。

 「の」「淡き影」では「チョコスプレーの淡き影がある」その「淡き影」が「秋麗」だという句になる。つまり、この選択においては「季語」によって一句が成り立っている。チョコスプレーに影淡き。チョコスプレーに淡き影。チョコスプレーの影淡き。はいずれも、「季語」が動く可能性がある。

 だが、「チョコスプレーの淡き影」はその影に「秋麗」を感じたという作者の、季語の絶対的な選択によって成立しているのだと思う。

 「の」を推す村上さんは、「影」を主とする。「影」を探して、「影」を読みたかったのだ。その影は「チョコスプレーの影」だったのである。

 「に」を推すときは、「影」が従の立場に置かれる。「チョコスプレーに」影があるんだね、と。

 その意味で僕は、村上さんが「の」にこだわる理由を首肯できると思っていた。(かさねていうが、読者としては「に」のほうが断然良い句なのであるが)

写生へ至る時差

 これは写生の句としてよめる。

 普通に考えると(という一般化が写生を論ずる場合の最大の障壁だということを知ったうえで)写生するときは、まずチョコスプレーを描き、そのチョコスプレー「と」その周囲の影「に」気付き、それはチョコスプレー「の」影かと認識する。

 村上さんは、その影に感動した。それをごくストレートに表現するなら、「チョコスプレー「に」影がありました」、となっただろう。

 その流れをいささか細かく追ってみるとこうなる。

 そこに、まずは「チョコスプレー」と「影」を別々に感知する。なぜ別々なのかといえば、視覚は、その影が何の影なのかを関連付けて断定する機能を持たないからである。(目に映ったモノの差異が、それぞれ「チョコスプレー」と「影」だとい認識するまでにも複雑な経路をたどっているはずだが、今回はそれを割愛する)

 チョコスプレー→チョコスプレー「と」影→チョコスプレー「の」影(か?)→チョコスプレー「に」影(がある)→チョコスプレーの影(だ)→チョコスプレーに影!→「影」と認識が進む。

 そしてそこから、俳句の判断として、チョコスプレー「にも」影があるのだな、と感慨して「に」が選択される。ここには主観はあるが作為はないように思う。

 だがこのチョコスプレーの影は、それがあるはずだと考えて探さなければ見出せなったものだった。そして最初からこの「影」に着地したかった村上さんの認識は、

チョコスプレーにはチョコスプレー「の」影があるはずだ→あった。チョコスプレー「の」影だ→チョコスプレー「の」影。となったのではないか。

 一見、「の」という中立的な助詞で、影の由来も、その有無に対する感慨をも払しょくされた→「チョコスプレー「の」影」という事実そのもの写生であるかのように思われた「の」は、非常に「作為的、戦略的」な「の」なのである。一見、単純なる写生句にみえるが、この「の」の選択は主観的な作為がなければ選択しえない「の」だったのである。

本当の問題点

 写生においては「不作為」が奨励される。だが、俳句という短詩においてそれをそのまま採用しては、まとめようがないのは事実である。だが、村上さんは最初に「影はあるはずなんです」と「断定」し、まんまと影を発見してそれを「淡き」と修飾して語数を整え一句を作り上げた。

 この句は夏井先生に「チョコスプレーに影がある、という発想のたくらみ、気付き」がよい、と褒められている。つまりその「作為(気付きを作為としてしまうのは語弊があるのだがここではそのように)」が褒められているのであって、その「写生」が褒められたのではなかった。だから「に」に添削されたのだ。

 僕はこのブログを書くまで、村上さんの「の」の選択は、「写生」における「即:重重無尽、相即相入・即融」という共時的融合の境地に模倣(近づけようと)して、「と」→「に」→「の」という時差を無化する方便として、採用したのではないか、と読んだ。

 経時的、分別的な知識として、時差をもって得られたチョコスプレー「の」影。それを、最終的結論として「の」をコロンと置くことで、気付きそのものは時間の中にあったが、その結果得られた景は、時間のない「刹那久遠の今」なのだ、と。

 だが、もしそのような写生句であったとするならば、この句には致命的な欠陥語がある。

 それが「淡き」なのである。

 影を決め打ちしていた村上さんは、その影を本当に「見た」だろうか。それは本当に「淡き影」だったのだろうか。

 チョコスプレーという小さなものに影がある、という存在へのリスペクトは、実は、ちっぽけなものの影だから「淡き」で妥当だろうというだけで「淡き」をあてがっただけだったのだとすれば、存在への尊敬もなかったことになる。

 この形容詞には誰も触れかなった。この句は写生句ではなく観念の句だ。だから、「に」の方がよい、で終わらせたのだ。

 この句は、「の」だろうが「に」だろうが、俳句にとって、存在にとって誠実だとは言えないのかもしれないと、今は思われてならない。

 

おわりに

 このブログ先行して、村上さんの「の」を肯定する立場でかいたメモを残しておく。


昨日のプレバトの村上さんの「チョコスプレー」の句。
感知→認知→認識→再認→俳句化という流れが、
「と」と「の」と「に」の変遷でたどれるように思って、とてもおもしろかったです。俳句にとって早さ、とは何か。


また、チョコスプレー「に」影があるのを見て、その影そのものから秋麗を感じたのなら、作者は「の」を選択するだろう。だが読み手にとっては「に」の方がクル。
俳句にとって誠実さ、とは何か。


秋麗という季語に、「に」を用いることであらわされる「気づき」という読み手の心の動きをヨシとしなかった姿勢とすればそれはうなづける。だが、それは先ずあった「気づき」を故意に消すそうとする作為なのか。「に」→「の」は、「主観」→「客観」のフェイクとして、誠実ではないのか。

虚子さんの「花鳥諷詠」の境地においては、この「に」と「の」に間(時差や主客の乖離)はない「即」ということなのだろうか。その場合、このチョコスプレーはどのように詠まれるのか。

 ホームズが日常の訓練によって観察と推理に区別がなくなるという場合の「速さ」と「即」との差異の顕れかたは?

午前8:13 · 2020年11月6日