望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

定型が環世界であること

定型詩にせっせと励んでいて感じること。

世界を定型に切り取る。

定型に収めるために取捨選択する選択眼。

針の穴から空を見る、その針の穴を駱駝が通り、ひょうたんから駒が出る。

宇宙と一体化する異次元空間としての定型。

と、これは「他者・対象」を「剪定」する態度であって、定型詩の半分でしかないことに、最近気づいた。

 では、あとの半分は? というのが今回のテーマだ。

 

 根本的には華厳経だ。一即全。全即一。ただしその具現は「曇りなき鏡」のその先の「鏡なき一体性」においてのみある。だから、そこを目指す。それがいかに荒唐無稽な実践目標であったとしても、目標を掲げてそれに向かおうとするのでなければ、あらゆる取り組みは虚しくなる、と私は思う。

 

 全体は部分であり部分は全体である。「一」が「部分」をもたないのは、全体が部分の自己反復構造だからかもしれない。

 「神は細部に宿る」というミース・ファン・デル・ローエの真意がJISマークのみに在らざるとするならば、部分が全体の一部分でしかないとしか認識できない理由を探求し、それを障壁として取り除くよう努めなければならない。

 

 存在は絶対の一からの疎外によって表出した現象で、それは物理的様相に具現化する。このことは、存在物は絶対的に他の存在と混交できないことを意味し、なお、その混交の可能性を畏れる根源的な恐怖が「マナ識=排他的自我」となっている、とするならば、定型によって世界=他我存在のみを切り刻もうとする姿勢は、保身そのものであり、「客観即主観」を掲げて、自我と他我という区分の放棄しているかにみえて、その実、それを放棄する主観を保持強化してしまう。

 その尖兵であり、最強の矛と盾となるのが「言語」だと思う。

 言語は疎外のための言語である。それは、バベルの塔以来、そのようになった、というわけではない。

 「光あれ」の当初から、言葉は疎外をもたらす楔のようなものだったのではないかと思う。

 その言語の魔術的パワーを正しく認識し、それを我の根源としてではなく、道具として用いようとするのが「ロゴス」主義、だったとすれば、仏教は、同様に認識しつつ、いかに「ロゴス」を離れるかを探求しているといえるのではないだろうか。

 

 世界を表現するためには、世界を切り取らねばならない、と考え、実践するものの大半は「ロゴス」主義であるように感じる。それは、世界のすべてを語りつくす、書き尽くす、ことなど不可能だと考えるからだ。

 そこに、さまざまなレトリックが発生した。

 そのような態度をとる者にとって「定型」は不自由で不完全な器でしかない。己の才覚で、その小さくいびつな器に、いかにして「世界」を盛り付けるか。

 象徴、比喩、助詞、語順、なによりも、どの部位がもっとも「旨い」のかを見極める目利きであること。

 料理は物質存在なので、そのように調理されたものは好みにあえばとても旨い。だが、「一」は物質ではない。

 私が求めているのは、提示される作品が「一」に混交する瞬間の触覚を呼び覚ましてくれるかどうかだった。そのような作品に触れたときに、その作品をすばらしいと感じ、そのような作品を提供してくれた作者に感謝する。

 

 単に「我」によって切り取られた世界とは、曇った鏡に映った切り身のアラカルトだ。

 

 作品を作る場合、我、主観、本人の経歴、そのときの世界および個人的状況は排除不可能だが、それをフレームとするか、そのフレームを自覚して上で、そこを離れて世界を捉えようとするかとでは、まったく異なると思うのである。

 世界を知覚するのは身体であり、身体が物質である以上偏見は必ず生じる。さらにその知覚の認識に言語が用いられることにより、偏見をさらに加速させてしまう。そのような環境に抗う環境が「定型」だと思う。

 定型で切り取るべきは、世界ではなく我である。偏見の中で見えなくなっている偏見を露呈させ、部分と全体とを切断している因果という曇りを拭って、我が一に混交する縁起の触覚を想起させること。

 五音・七音の韻律による表現は日本語を呪術化する。呪術とは、科学的知見によらず実効のある方法、手段を意味する。

 これは、我々が手にした強力な解脱環境だと思う。