望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

井泉水句集(新潮文庫版) 付録 俳話より

はじめに

 前回に引き続き「自由律俳句」だ。

 私の手元にある荻原井泉水さんの句集は新潮社版の昭和12年1月7日の版で、昭和4年から昭和9年、鎌倉在住の頃の句を集めたものだ。昭和9年に五十歳となった井泉水さん的にも、よいまとまりの期間だったのだという。

 自由律俳句を跡付けるのなら、改造文庫版で大正八年の句から読みたい。当然、全句集も発行されているものと思うのだが、残念ながら今は手元に無い。

 正岡子規さんから俳句年譜をたどれば、自由律には河東碧梧桐さんの名前が挙がる。彼とこの井泉水さんとが自由律俳句の祖となる「層雲」を発刊したとある。

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だが、尾崎放哉さん、種田山頭火さんが、自由律俳句の「型」を確立したと考えれば、やはり荻原井泉水さんに源流がある。そして、それはやはり、正岡子規さんー高浜虚子さんによって確立した『ホトトギス』という本道に対抗する運動であったと思う。

 虚子さんは「それを俳句で行う必要は無い」と一蹴したが、その態度が俳句を狭く不自由にすると、ますますの反発を招いた。

 前回も書いたとおり、私は自由律俳句は俳句であると思うし、それはとりわけ写生俳句であると思う。それは、「すべらない話」が実話でなければならないのと同じである。

 だが、『層雲』対『ホトトギス』の図式において、自由律俳句は「写生」であることを否定しなければならなかった。

俳話 「歩む」

 この句集に収められた句は、ほとんどが「叙景句」である。それは、景色の変化に「俳趣」を見出し、その一瞬を拾っていくのである。なので、

すわりて砂、手にして砂のあたたかし

 のような叙情的句は、とても少ない。

 印象として、自由律俳句というと「主観」「叙情」句であり、抽象的、感覚的であるとの先入観が強いものだが、いわゆる「感想」をつぶやくようなものは、むしろ例外的だ。

「歩む」には次のように書かれている。

歩んでゐる者は其一歩一歩に、新しい風景を見出してゆく、新しい風景は新しい言葉を引き出してくる。私達はただ此気持で俳句の道を歩んでゐる。

そして芭蕉さんの「千変万化する自然を知るべし」という意味合いの言葉を引用して話を締める。

 これは、狭義には吟行の推奨であり、身をおいた所の自然を読むという態度は、基本的な写生の態度と同じだ。

俳話 「拾ふ」

 芭蕉さんの門人北枝さんという人が、子供に「どこに行くのじゃ」と問われるたびに、「発句を拾いにいくのじゃ」と答えたという故事を紹介し、

私達の同人のうちに、「句をさづかる」と云つてゐる人がある。「句をさづかる」と云つても、句を作る事には違ひないのだが、「作る」といふと作為、技巧、私意といふ心持が混じ易い、そうした心持をまじえづしてホツと生まれ出たところのものを両手で受けるやうにして自分のものとする気持ちを「さづかる」と云つたものなのである。

 と紹介し、北枝の「拾う」も同じ此気持ちだろう。と断ずる。そして、

其れこそ「拾ふ」とは云ふが、本当に自分にさづかつたものに外ならない。

 と締める。

「作為」なく定型に収められるようになるには、前回書いたような修養が不可欠だろう。それまでは、せっかく「授かった」ものを「俳句」に整形しようと、いじり倒し、言葉の選択と順序だけのパズルへと貶め、季語ですらTPOにあわせて取り替えてしまう。

 絵画の写生において、構図を整えるために実景とは異なるように描く、ということは広く認知されている。写真であっても、切り取り方で理想的な風景をモノすることができるだろう。

 かつて俳句は「ヒネる」ものであった。それが俳諧であり正岡子規さんは、写生句を提唱しつつも、その諧謔精神も否定はしなかった。無論、単なる言葉遊びや知識の披瀝に堕した「ツキナミ調」は唾棄したが。

 昨今では、俳句は「一瞬を切り取る」といわれることが多いようである。切り取る姿勢は、「拾う」「授かる」よりも、作為的であり、「写真」の態度により近い。映像的であることを是とする俳句が、そちらに寄っていくことは宿命的ではあるが、「詩はいじくりまわせば死ぬぞ」との中也さんの声は、永遠に響いている。

俳話 「写生」

 井泉水さんは、写生を「俳句の出発点としては悪くないが、第一過程にすぎない」と切り捨てる。そして「南画」における「写生と写意」の違いを力説する。

写生といふと客観的の形体に捉へられる。その形体の奥にあるところの生命に触れて、其気息をさながらに写さふといふのが写意である。そこで如何にして其生命に触れるかといふに、こちらの、即ち自分の生命を以って引用するのである。是は単に眼で見るだけでは出来ない、心を以って見る、即ち感ずるのである。十人が同じ物を見ても、其を感得る一人だけにしか感じられぬ事なのである。其物は「外」にある物にせよ、其は其人の「内」にあつたものだといつて差支えない。其は「拾ふ」たものであつても、決して偶然に拾うたものではない。初めから其人のものだつたのである。

 虚子さんの「花鳥諷詠」は昭和二年提唱と、ある。

kotobank.jp この句集に収められているのは、昭和4年からの句であるというが、付録の俳話の初出が書かれていない。

 いずれにせよ、昭和初期の主流も最右翼も、まったく同じ原理に従っていたのだということは確かなようである。

が、井泉水さんは俳句の「写生主義」をこのように斬って捨てる。

当今、「写生主義」といふ言葉がある。身辺や道端から何でも眼に触れたものを拾いあげて俳句にすれば其で好いと説いている。これは屑拾ひが紙屑を拾つてあるくやうな態度であつて、徒に句をむさぼる事である。卑しい事である。

「写生主義」=「ホトトギス」なのだろうが、井泉水さんが賛同する「写意」もまた、写生から生ずる境涯である。したがって、写生を否定することは写意を否定することにも繋がる。だから、ここで批判されているのは「有季定型即俳句」という安易な作句の姿勢であったと思う。

 身辺や道端から眼に触れたものを拾い上げて俳句にする。

 この一文は、ホトトギスでも層雲でも、どちらにも当てはまるのではないだろうか。

 私は、俳句とはどのような形であれ「唯物的」でなければならないと思う。だから、俳句とはまさに、身辺や道端から、つまり「身体の在る処」から拾うものなのだ。何を拾うかは、拾おうとする身体と拾われる事物との相関であると思う。互いが今ここに在ると呼び合う(挨拶)ところに俳句が生じているのだと思う。

 拾おうとした事物が屑であるか珠であるかではない。拾った俳句が屑であるか珠であるか、が問題なのだと思う。

おわりに

 とはいえ、この世の顕現は全てに仏性があり、悟りの境地を往還する視座には、山は山であり川は川であるという。身辺、道端の一草一虫に至るまで、そのままで仏であるのならば、拾おうとしているのは屑ではなくそこに仏をみて拾うのだろう。それが俳句の気持なのだと思った。

付録 井泉水句集 ひぐらし集より拾遺

富士が小さく晴れて土筆はまだない

海へは橋を、早春の松の道にして

白墨の手を洗ふ水もぬるんでゐる

旅の山かすむ爪きつてゐる

土筆の長い短い夕の日がのびてゐる

噛んですかんぽのほのあかいの

はいればこぼれる湯でみんなはいる

蜩鳴く鎌倉の鎌倉に移り

何もかもすんでしまつた皿洗ってゐる

秋雨のポストには遠い葉書一枚

雨にぬれぬものはない犬のあるく

鯉に飯粒投げて飯たべてゐる