望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

兵庫ユカさん『七月の心臓』から

はじめに

もしかしたらこのブログで兵庫ユカさんの『七月の心臓』をとりあげていなかったのではないかと記事検索をかけてみたら、やはりとりあげていないことが分かった。だから、今回はこの歌集のことを書く。

作者のことや、この歌集のことは、検索すればすぐにわかることだったり、検索しても意味のないことだったりするので、ここにも記載しない。

わたしはtwitter

兵庫ユカ『七月の心臓』bot @shichigatsuno

2006年5月20日発行。全221首を収録順にツイートしました

で、全221首を読み、そこから気に入った176首を書き写し、自分の『七月の心臓』としている。わたしには、オリジナルを手に入れたいという欲求はほとんどない。本は書籍の形で手にすることを至上と考えるが、それがきちんと出版された状態のものである必要はないので、たとえば自ら書き写したものを、自分で製本したもので十分満足できる。因みに、絵画や彫刻なども図録で十分である。

なので、いかに『七月の心臓』に心酔しているからといって、古書店市場に中古本を探し求めることとは無縁である。ことに、エクリチュールというメディアの本質は、言語情報であって、その情報をどのような媒体に写すかは、二次的な問題なのだ。

もちろん、作者は「書籍」の形式での完成形を想定し、紙やフォントや版組などを検討し、挿絵や装丁などにこだわるということはあるかもしれない。だがそうした凝り方は、言語情報のつけたしに過ぎない。だが、改行や活字の反転などといった技術を用いた作品があったとすれば、そうした書式を省くことはできない。そういったものは画像として複製する。改めて書いてみると奇妙な話だが、作者の意図したとおりの言語情報を間違いなく写し取るためには、視覚情報に置き換えることが有効なのだ。とはいえ、書式というものはもともと視覚的配慮だったのだと気づくと、ここまでの数行を削除したくなるのだが、ここでは、ここまでの数行を削除したくなった。と記すにとどめておく。いずれにせよ、『七月の心臓』とは関係のない話だ。

『七月の心臓』から

連の関係性

読んでいて思うことは、「この上の句には、別の下の句の方がよいのではないか」ということだ。

明日風をつくる機械をオフにする 必要ならば求めるだろう

という歌は、その近くにあった

遠くまで聞こえる迷子アナウンス ひとの名前が痛いゆうぐれ

の下の句は入れ替えてもよい気がする。

どの犬も目を合わせないこれまでもすきなだけではだめだったから

という歌の五・七以下に

いいえって言ったからにはいまよりも青くなるしかない青い花

の五・七以下を付け替えてもいいと思う。

もちろん、歌人は最高の歌を作ろうとするのだから、発表した形をもって最良としているのである。したがって、上記ような考えは作者の意図に反したものであることは明白なのだ。これは単に「好み」の問題などではない。作者にとっては唯一の解が、この形だったということなのである。

それでも、わたしは考えてしまう。五・七・五・七・七という五つの区分のそれぞれの関係性の微妙さや、主従について。

跳躍

現代短歌を読んでいると、五つの区分を二つか三つにまとめたうえで、それらの連の飛躍の大きさが爽快と感じることがよくある。時にそれは肩透かしであったりもするのだが、すくなくとも「散文」にはない射程を感じられる。

そういう意味で、『七月の心臓』には、そのような飛躍をウリにした短歌はあまりない。しかしもちろんそういう歌もあって、それらもみな素晴らしい。

きっかけは膝の砂粒 生きているあいだに星にされるのはいや

雨音を聴いてるような真夜中のメロン青い青い逃げそう

敢えて「僕」のさみしさを言う 雪の日にどこかへ向かうレントゲンバス

「この雨が上がりさえすれば」どこまでも角砂糖の気配をさがす

倦怠がバターを溶かす日曜日ころしたいひとはひとりもいない

散文的短歌

そしていわゆる俵万智さんスタイルの歌も素敵だ

きっと血のように栞を垂らしてるあなたに貸したままのあの本

誰からの施しかだけ確かめて携帯電話を片手で畳む

でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める

通じないたとえ話をあきらめてお麩びっしりの味噌汁を出す

折ればより青くなるからセロファンで青い鶴折る無言のふたり

正しいね正しいねってそれぞれの地図を広げて見ているふたり

すこしでもながくいっしょにいたかったあの雪の日の猫舌はうそ

ライトバース

あらゆるスタイルが主張しすぎず、慎ましく、並んでいる。

左利きの転校生はすけすけで わかる こうして結ぶ同盟

ともだちに子供ができた「おめでとう」クマの目を縫うようにさみしい

文字盤の数字は虫に見えるけど おはようわたし おそらく朝だ

七月の心臓としてアボカドの種がちいさなカップで光る

防腐剤無添加ですが腐ってもいます冷蔵庫って風が冷たい

割ってから与えてくれる真夜中のサブレの鳩の頭 かわいい

掃除機に何か詰まって神様に祈ったことをすべて取り消す

好きなところ

わたしがこの歌集が好きなところは、あらゆるスタイルが書かれているにもかかわらず、すべての温度が等しいところだ。叫んだり、慟哭したり、はしゃいだりしない。どの歌も抑制されていて、我を忘れたりしていない。

どことなく「短歌か。短歌でいいのかな」という恥じらいを感じるのである。

すべてを短歌に賭けるなんてことはできない。だいたい短歌を作らねばならないことそのものに喜びはあまり感じない。それでも、短歌にすることで感じられる感情や広がる世界は確かにあり、その効能も認めざるを得ない。けれども短歌か。という逡巡といえばよいだろうか。

これらは、例によって個人的な感情なので、断言するつもりは毛頭ない。わたしにとってこの歌集はそのように好ましいという記録である。

その星の住人が云う だれからの手紙もパンも届いてないと

えらばれたなんておもえばこわいゆめみるじゅらるみんじゅらるみんじゅら

人形が川を流れていきました約束だからみたいな顔で

テーブルに月が林檎の影を置くここが、世界の真ん中だから

おわりに

この歌集を知ることができ、そして書き写すことができたのは幸いだった。日々を静かに送る中で、つい独り言をつぶやくようにフレーズが生まれ、それらを記録しておいて週末にでも、短歌パズルを作りたい。このパズルには元の絵はなく、正解はその時々で異なる。それが良い短歌になるか悪い短歌になるか、それとも短歌ですらないものになるかをジャッジするのはとりあえず、わたししかいないので、そういう場合の短歌見本として、この歌集を座右においているのである。