望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

「詩」以外の『戦後詩』を読む ―『戦後詩 ユリシーズの不在』寺山修司

はじめに

詩について語ることはできない。

詩を理解することができない。わたしは詩を散文のように咀嚼してしまうので。

寺山修司さんが好きだ。『戦後詩』は塚本邦雄さんの短歌を漁っていて見つけた本だ。

前衛短歌。寺山修司さんには、少女詩集もあり、詩のアンソロジストとしても一流だった。

映画も本も、小説家も偉人・奇人のエピソードにしても。昭和歌謡にしても、寺山修司さんは同じように楽しんでいるように思われ、それぞれのアンソロジーもとてもおもしろい。

そんな中で本書は「めずらしく」「論」として一冊を成している風体であった。だが、読んでいるとあいかわらずの寺山さんである。

わたしは「戦後詩」に興味はなかったが、寺山修司さんがそれをどうとらえていたのかには興味をもったし、戦後詩人ベスト7を挙げる、という部分はひじょうに楽しかった。

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今回はそんな感想を記した。

ジャンルの超越と越えられないもの

『一九六五年発表の本書は、今でこそ珍しくなくなったジャンルの超越をいとも自然に行った先駆的詩論でもある。"戦後七人の詩人"として挙げたのは谷川俊太郎岩田宏黒田喜夫吉岡実に加え、西東三鬼、塚本邦夫、星野哲郎。権威によらない闊達で透徹した批評眼は田村隆一、青島幸雄、長谷川龍生、ケストナーら数多の詩と遊び、魅力は尽きない。不世出の表現者の天才性が遺憾なく発揮された、名著』(本書裏表紙)

木村拓哉さんがどんな役を演じても木村拓哉さんであるように、寺山修司さんは、いかなるジャンルのものを書いても寺山修司さんなのである。それはつまり、どんなジャンルのものについて考えても、それについて書かれたものは寺山修司さんである以外ないということであり全てが同じ文体を有する。

寺山修司さんの「ものさし」はかなり限定されている。それは、立川談志さんがフレッド・アステアを引き合いに出すことに通じているように思われるし、柄谷行人さんが、カントによって語るところとも通じる。それは、そうした定規に当てはめてしまうという狭量さを意味しない。彼らが共通するのは「ジャンルの危機感」だと思う。そうして、寺山修司さんはその危機感を感じねばならないジャンルが非常に多かったように思う。俳句。短歌。詩。演劇。小説。映画。広い意味での「教養」の貧困化に対する危機感、とでもいうようなものを感じる。

マチュア

「教養」とは「楽しむためのもの」だと思うのだが、それは「能動的」であることによって、より充実するものではないだろうか。能動的であるとは、積極的に関わっていく態度であり、そこには流動性が含まれていると思う。つまりは、ジャンルの破壊=拡張=革新への試みがあらねばならないと感じる。

わたしは俳句や短歌や小説を楽しみたいし、楽しもうとしている。だから、実作してみたりするのだが、その際の悪しきアマチュア性というものを自覚せざるをえない。それは、俳句を作ろうとして俳句のようなものを作って、できたできたと喜んだりする、というところだ。これはつまり、ジャンルに収まろうという積極的に消極的な態度であるといわざるをえないのだ。初心者の「学び」は、まず「真似る」ことから始まるのだから、過渡期的にはジャンルの傘の下に潜り込もうとすることは間違いではない。だが、いつまでもそこに安住しようとしていてはつまらない。やはり自分とジャンルとが相関的に変革していかなければ、実質的には無であるといわざるをえない。と、これは、コミュニケーション論なのである。

ジャンルとのコミュニケーション。つまりは、ジャンルに話しかけること。そして相手の言いなりになるのではなく、こちらも主張することによって相互に破壊と再生をすること。こうした関係を「移し」という概念に大岡信さんはまとめていて、近いにその本も読むつもりなので、ここにその先触れとして記しておこう。

しかしなぜ、「変わらなければ」ならないのか?

澱めば腐る。のメタファーは有効だ。実際、文壇、俳壇、歌壇、いわゆるアカデミー、権威、の内部のことごとくは政治であると感じることが少なくはない。とはいえわたし自身は完全なるアマチュアなので、そいうした「壇」の内情に触れたことはなく、洩れ伝わってくる不平不満などから、そう思うだけなのだが、例えば短歌界で「歌中のわたし」と「作者のわたし」の違いなどを大問題にしていたりするのを目にするにつけ、くだらないなと感じることは確かなのだ。

パフォーマティブ

詩は活版印刷によって代理伝達の芸術となって力を失った。という論点が、本書の始めに出てくる。かつては、作者が肉声によって詩を伝えていた。となればこれは、パフォーマティブだったわけである。というよりフォーマティブなどというものは、印刷術以降の問題だということが分かる。寺山修司さんは、この代理伝達を、歌謡曲の作詞と歌手の関係や、朗読会における作者と朗読者の関係によって論じている。すなわち、作者が盗まれる、という事態である。

パフォーマティブであるためには、伝達手段としての文字を捨てねばならず、そのように伝達されることが一般的なものとして歌謡曲がある、のだが、そもそも、パフォーマティブからフォーマティブになって失われた作者の存在は、フォーマティブの元凶である文字を捨ててもなお、回復されないという点がおもしろい。

詩人は話しかけるべきだ。

座頭市を映画でみた客が、薄目で肩を怒らして出てきたり、歌謡曲を聞いた聴衆が声高に「支配からの卒業」を叫んでみたりしたところで、数時間もすればそんなものは消え失せる。

かつて、詩人ワタナベノボルへは、IV5Mというインタビューにおいて、詩の持続力の短さに対する絶望と、大衆を鼓舞し続けることの困難について語ったし、三島由紀夫さんが割腹までした効果がいかほどの影響を後世(つまり今)に及ぼしたかを考えると、溜息を禁じ得ないわけである。

おわりに

本書はこの溜息をぎりぎりで留保し、希望を繋ごうとするものだと思う。だからこれは批評の書なのである。

という文を得たところで、唐突にブログを終える。

このようにブログを終えることができるのも、アマチュアならではのことだと思うからだ。