望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

宮沢賢治の短歌(序説) ―不定形生命体という主体

はじめに

 このところ、短歌入門関連の書籍を立て続けに読んでいて、直近に読み終えたのは、この本だった。

www.kadokawa.co.jp

 短歌の入門書としてどうか、というのは人それぞれにあうあわないがあるだろう。わたしは、俳句や短歌の入門書を読んで、作りたくなるかどうか、をポイントにしているが、これは余談だ。

 今回のブログは、この本が入門書であるか否かには関係がない。だが、入門書や鑑賞の書を読んでいくなかで、本書が始めて触れていた内容があった。それが、

宮沢賢治さんの短歌について、である。

 わたしは、宮沢さんが、短歌や俳句を作っていたことを知らなかったので、驚いた。しかも宮沢さんの作家としての経歴がこういう定型詩から始まっていたことも、本書で初めて知った。

 さらに、本書に引かれていた宮沢さんの初期の短歌の姿に、また驚いた。だから、さっそく宮沢賢治全集の「短歌・俳句」などを収めた巻を図書館に予約したところだ。

 だから今回のブログは(序説)とした。

 本当は、「説」などにはなっていない。ただ、宮沢さんの短歌とのファーストインパクトを、紛れもない「生」の宮沢さんであるという肌触りを感じたということを記しておきたくなった。

宮沢賢治というジャンル

『哲学の東北』という中沢新一さんの本には、現在の文壇、詩壇が、宮沢賢治さんを位置づけることができないという現実が記されていた。宮沢さんの小説が「児童文学」「童話」に位置づけられているという、権威の貧しさと臆病さといやらしさを感じる。

 この位置づけに関して、『短歌のドア』の加藤治郎さんも、「短歌界から無視されつづけている」と書いていたと思う。アララギ派による写生主義が席巻していたであろう当時の短歌界において、宮沢さんの短歌はあまりに非現実的であると捉えられたのかもしれない。たとえば、泉鏡花さんを幻想(ある意味ではファンタジー)小説と呼び、稲垣足穂さんの小説のある部分をサイエンスフィクションと呼ぶのであれば、宮沢さんの小説はサイエンスファンタジー小説と呼べるかも知れず、それは「初期の短歌」においても同様なのであった。

 宮沢さんが「生生しいリアルさ」をそのまま露呈させていたのは「春と修羅」においてのみだったかもしれない。だが、それ以前(たぶん以前なのだろう)に「短歌」があったのだということは大きな発見だった。

初期短歌

 本書から、明治四十二年盛岡中学校時代の短歌から大正五年までの短歌をいくつか拾った。wikipediaによれば

3年生の頃から石川啄木の影響を受けた短歌を制作

とある。16歳頃からということだろうか。

泣きながら北に馳せ行く塔などのあるべきそらのけはひならずや

ブリキ缶はらだゝしげにわれをにらむ、つめたき冬の夕方のこと

巨なる人のかばねを見んけはひ春はましろく刻まれにけり

うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり

  石川啄木さんの影響とは、その時その時に高ぶった感情をそのまま短歌の調べに乗せて表出してもよい、という「解放の許し」のみであったように思われる。石川さんのような社会的(自己卑下・自己増長的)リアリズムは、宮沢さんの短歌には現れていない。

 性急にいってしまえば、宮沢さんの短歌は「心象風景のスケッチ(写生)」に他ならない。このような世界が、宮沢さんの「リアルな世界」だったのだ。そしてこのリアルさは、後年の小説の全てに通低していると思う。

盛岡高等農林学校入学前後(18歳)

 ひじょうに、共感性の強い人だったのだろうと感じるのだ。アニミズムを常に肌で感じとっていた人だったと思うのだ。そういう人だから、法華経に惹かれたのだろうと思うのだが、それはまた別の話で。

あたま重く
ひるはさびしく
錫いろの
魚の目球をきりひらきたり

 

そらはいま
蟇の皮もて張られたり
その黄のひかり
その毒のひかり

 

ぼんやりと脳もからだも
うす白く
消え行くことの近くあるらし

 

夜はあけぬ
ふりさけ見れば
山山の
白くもに立つでんしんばしら

  ただちに、「病んでいる」と断定することはたやすい。萩原朔太郎さんだって、梶井基次郎さんだって、芥川龍之介さんだって、そうだった。だが、宮沢さんの幻想的世界感覚には、どこかメルヘンを感じるのだ。そこに僕は、泉鏡花さんや稲垣足穂さんを感じたのかもしれない。

大正五年

雲ひくき峠越ゆれば
(いもうとのつめたきなきがほ)
丘と野原と

宮沢さんの文学には「トシ子」さんの存在、あるいは喪失が大きく影響している。僕は基本的に「テキスト読み」なので、いわゆる「年譜読み」をあえて避けているところがあるが、作者本人にひじょうなる興味を持たざるを得ない場合には、年譜とつき合わせて作品を鑑賞することにもやぶさかではない。だが、その場合、作品を作者の人生に縛り付けることになることには自覚的でありたい。ひとたびそのように読んでしまえば、再びそれをカッコに括ってテキストとして相対することはかなり難しいからだ。

 だが答えあわせをする必要などはない。僕は宮沢賢治さんが作った短歌でなかったとしても、これらの短歌には惹かれただろうし、その流れを汲みたいと考えただろう。

おわりに

 塚本邦夫さん。寺山修二さん。岡井隆さん。ら前衛短歌以前に、こうした幻想短歌があったことは、短歌をさらに広げるものではないかと思う。

 短歌連作がフィクションかノンフィクションかなどという瑣末なことに拘泥するなどナンセンスだし、「作者主体」「作中主体」「作者のリアルな主体」などの「主体論」はやかましい。

 僕のようなアマチュア短歌にとっては、詠みも読みも、響けばOKだと思っている。僕は、俳句の形式に関しては「写生」を随一とするものだが、短歌に関しては、心象音像などの風景のスケッチでよいという考えである。そこでは、主体はぬるぬるのどろどろの変幻自在な不定形生命体である。