望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

挟み撃ちをスライスしてなんとなくクリスタルな純度98%の小説 ―『ヴィトゲンシュタインの愛人』 デイヴィッド・マークソン

はじめに

 純度の高い小説は燃える。実際、この小説では本や家がよく燃える。そしてそこに残った焼け跡は、焼ける前よりも豊かだ。それは余剰によって豊かなのではなく、消尽によって豊かにされるしかなかった。抉られた傷に再生する肉片がつねに盛り上がるように、失われなければ生じなかった余剰が、かえってその凹みを保存し、失われてしまった事を主張し続ける。

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だが、その声は外側にではなく、凹みの底を渡る風の音だ。抉られるのは外部ではなく、常に記憶の内部だ。無論、記憶には外も内もないのだが。

小説性とは

 本書(を形成する『文』の連なり)は「小説性」の純度の高い「小説」である。小説の純度が高ければ高いほど、小説は似通っていき、物語から離れていく。わたしが「小説」だと思う『挟み撃ち』を思い出してみる。するとあの小説の純度はさほど高く無かったことに気付く。それは、本書を読んだから、そのように感じるのである。

 

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 『挟み撃ち』

 小説の純度の高低は、小説の質に比例しない。だから、本書と『挟み撃ち』に優劣はない。批評家の観点からは無論、優劣はつけられるのだろうが、わたしはそのような優劣から何かを掴み出せるとは思えないので、優劣を考えない。

『挟み撃ち』は内面を裏返していく小説であった。 『ヴィトゲンシュタインの愛人』は、その表層をスライスした薄片を放り込んだ万華鏡である。そこを流転、展開していく美しい煌きは「固有名」だ。

『般若心経』

 固有名の氾濫とその無記名性。自分以外が失われた地球を遍歴するとき、より所となるのは絵画、音楽、書籍とりわけ伝記の思い出だった。それはかつてあったものの名残であり、失われた片方の「物語」だ。対になるさまざまな物の片方の喪失を語るのが本書であり、そのときあるはずのもう片方の存在は、勘違いやいい間違いや、つねに遅れてくる訂正によって、絶えず否定されることによって継続し続ける。

 だから、本書は「般若心経」なのである。

『なんとなくクリスタル』

 本書に散りばめられた、というかほとんどそればかりであるところの「固有名」を、それらが固有名が示す事物を記述しつくすことによって確定しようとする試みは、そのあまりの雑多性によって、かえって「固有名の主」を霧散させてしまう。「固有名」と「固有名」の絡み合いによってそれらはどんどん一般名に似てきて、とうとう抽象名詞であるかのようになるまで薄めらる。

 あたかも脚注を読み続けるかのような体験。本編なき脚注小説が本書である。そしてそれは必然的に『なんとなくクリスタル』を思い起こさせる。

 

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  だがそれはむしろ逆だ。なんとなくクリスタルは徹底して唯物的であり、唯物的表層こそが存在の全てだということを露呈させた小説だった。(エクスタシーをのぞいて)

 本書は千年後の『なんとなくクリスタル』である。

 本書に登場する固有名は、古代ギリシアから同時代に至り、神話もゴシップも等価である。『なんとなくクリスタル』における固有名が絶対的に担保していた「同時代性の空気」は、固有名をもつ「物」のテキスト化によって完全に失われている。それはつまり、イマージナルな時間の剥奪を意味する。だからこそ、本書にはリアルな「今」しかないのだ。その今が、過去と未来とのあわいにある厚さをもたない線であるという苛烈な認識だけが、本書を流れていく。

ドラえもん最終回』

 たとえば本書を、ネットで流布した「ドラえもんの最終回」になぞらえて理解することもできなくはない。植物状態のび太が見ている夢。というあれだ。

 しかしそのような解読(デコデ)は、せっかく俳句にしたものを散文で説明するかのような野暮さしかない。これほどの純度を保つ小説を物語に還元する理由はどこにもない。そのようにいったのは、秋櫻子だったか、草田男だったか、それともほかの俳人だったのかは定かではない。そしてドラえもんの最終回がこのようなものではないことは間違いはない。

おわりに

 本書は、ひじょうに読みやすい『謎の男トマ』でもあり、泥抜きされた『69』であり、『なんとなくクリスタル』の脚注であり、海外版の『挟み撃ち』であり、『般若心経』であり、純度の高い小説を経験できる。その一文一文の希薄さは、長大な自由律俳句であり、ヴァジニア・ウルフの『波』よりも脈絡のない文は、意味を剥奪された接続詞によってかろうじて断絶をまぬかれようとすることによって、むしろ因果を断ち切られる。

 これは、詰め将棋で言うところの「煙詰め」の小説であり、つまり、小説