望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『身体の宇宙誌』が驚くべき私のロードマップだったこと

はじめに

 『身体の宇宙誌』 鎌田東二

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 随分以前、この本を読んだ際には感じなかった興奮を、今の私は禁じえない。


 本を読むには時宜がある。
 今、私がこのタイミングで本書を読み返すことで、先ごろ書き終えたある小説を跡付け、かつその先の道程が明らかになった。結論として、私はほぼ、本書のロードマップによってドライブしていた。本書と、中沢新一さんの著作とが両輪だったのである。

遭遇以前

 数年前、本書を読み進めたとき、なぜそれほどまでに私に響かなかったのか?

 今となってはよくわからない。中沢さんの著作があれば、本書は不要だと感じていたのかもしれない。
 ここに取り上げられている主要人物を挙げれば、空海道元荒俣宏三島由紀夫渋澤龍彦稲垣足穂南方熊楠宮沢賢治松岡正剛ミハイル・バフチンニーチェ。(以上敬称略)など、私の興味の多数の中心を貫いていた。

 そのテーマとしては、身体。器官。アナル。耳。汚物。解脱。輪廻。仏教。カバラスーフィズム。神話、民話。深層心理。重力。スピード。など、なにをおいても欠かすことのできないものばかりなのである。

 本当に、なぜ、これが当時刺さらなかったのか? 当時のわたしは、何者だったのかを疑いたくなるほどである。

亡羊

 一方で、私が小説を書くことによって得たさまざまな知見、気づきなどもまた、本書において、すでに研究済みとなっていたことに、大いなる落胆を感じたこともまた事実であった。

 小説とは、手探りで地図を作りながら忘却を見出していくことに他ならない。その地が、現在の日本であったとしても、古代中東であっても、その姿勢にはいささかの違いもない。

 私は本書を、書き上げた小説を相互補完する新たな(しかし、それはもはや「新た」ではないのかもしれぬ)小説の資料になるかと思って、気軽に手に取っただけなのであった。それは、確かに有用すぎる資料だった。既に書き上げた小説に不足していた点や、さらに補完すべき点を照らし出し、今後何を「書かなくてよいか」を明確してくれた点において。

書かなくてもよい

 私は小説が書きたいのであって論文を書きたいわけではなかった。小説は論証を超越してでも、「事実=真実」を記せばよい。それは作者にとっての「真実」であればよく、そこに普遍性の有るか無きかは、読者の問題なのである。小説を啓蒙の具や、大衆を扇動せしめんとする檄文のように用い、それを是とする社会的了解のあることはもちろん理解した上で、私はそのようなものは書けず、したがって社会的には書かなくてもよいものしか書けず、だからといって、書かなくてもよい小説などは何一つないのだと信じて書き続けるしかないわけだ。

おわりに

 書き終えた小説に明確でなかったことは、「即身仏の速度」である。本書でその知見を得た以上、書き終えた小説を直すのではなく、相補完的関係にある別の小説によってそのことを究明し、そこに、「頭足動物=蛸」の世界を取り入れた上で、ある「風鈴の由来」を「密教」的に響かせようというのが、次作のテーマにした。

 今は、自分でもわけがわからないが、そのように書いていくように私を仕向けたのが、本書だった、ということで、今回のブログは終了する。