はじめに
抜書しながら本を読む。その場で抜書できなけば付箋を挟んでおいて、あとで抜書する。手帳の抜書は後にノートへまとめて書き写すのだが、ノートに書き写すタイミングを逃している抜書が手帳に溜まってきている。自筆の手書きは時ともに判読不能になるので、いったんフォント化しておく。今回はそれをこのブログを使って行う。脈絡のない抜書の羅列だ。したがって引用符で括っていないが全て引用であることを予め断っておく。自分の感想やコメントはカッコに括っておく。
1『ヴィトゲンシュタインの愛人』より
私には子供が砂を愛する理由がよく分かる。
簡単な用事だ。きまぐれな風も吹いている。
猫を見たいという気持ちがとても強ければ、人は猫を見てしまうものだ。
(誰も日付を数えなくなったら、今日はおろか、誕生日がいつなのかも永久に分からなくなってしまうのですね)
聖テレサと十字架の聖ヨハネの話をしたのは、先ほども言ったように、スピノザに関連してレンブラントのことを考えていたときにエル=グレコに関連して思い出したからだった。
しかしこれもまた先ほど言ったように、エル=グレコが聖テレサや十字架の聖ヨハネと知り合いだったかもしれないという事実は、レンブラントとスピノザについて文章を書く瞬間まで、覚えていることを思い出さなかった。
しかし他方で、エル=グレコがセルバンテスとも知り合いだったかもしれないとう事実は、以前エル=グレコについて覚えているけれども書き留めなかったことをここに書くまで、思い出すことがなかった。
(……)
要するに、覚えていることを思い出さなかったことを思い出しても、覚えているのを思い出さないことの表面を引っ掻く程度の意味しかないということなのだ。
それは、地下にあることによって一度ならず私を困惑させた八箱か九箱の本だ。
実際、ある言語が上手に読めない場合、一般的に、その言語で書かれた詩はもっと読めない。
(忘却と想起と訂正:挟み撃ち もしくは脚注小説としての、あるいは百年後の何となくクリスタル)
2.『〈うた〉起原考』より
詩:きわめて意図的な言語の凝縮性に根差した営為。
前半部ー(屈折/転轍)ー後半部 破綻を持ち込んで、歌末で真の統一に至る(たんなるオヤジギャグとは違うのだよ) (弁証法ですね)
屈折:掛け言葉等の使用で一回折れ曲がる単屈折。複屈折もある。
転轍:屈折とは異なる。(意味のラインの乗り換え)
双分:A|B と二つに分けるとき|に相当する第三の部分が生じる。レヴィ=ストロスの三分観に通ずる。
日本語では主体的表現があらわに助詞辞によって示される。(我=接続詞)
作中主体の我は省略される一人称で詠み手はゼロ人称である。
歌中のわれは主体以外の投影であることはよくある。
引用の一人称、三人称にもなる一人称=四人称→物語(語り部)
会話の中の一人称
詠み手主体は究極的には「現在」を起点とする。
「き」と「けり」とを対比する歌は多い。
和歌の実態は詠み手と詠む主体の微妙な分離のもとに成り立つことが多い。(穂村さんは、「主体と歌との距離」と言っていた)
『万葉集』長歌・短歌・反歌・問答歌・挽歌・東歌・正述心緒〈正(タダ)に心緒を述べる〉・寄物陳思〈物に寄せて思いを述べる〉
相聞:現在そこにいない人に向けての思いの表明であり、それを告げ知らせているもの。
『詩品』総論:詩に三義有り。一に興と曰ひ、二に比と曰ひ、三に賦と曰ふ。文己に尽くして意に余り有るは興なり。物に因りて志を喩ふるは比なり。直に其の事を書きて言を寓し物を写すは賦なり。
正述心緒:「正」はタダニと訓み、『詩品』に言う「直に其の事を書きて……」の「直に」に一致しh、それは『歌経標式』に見られる「直語(タダゴト)」とあるその「直」であり、『文鏡秘府論』(地巻)の六志の一に「直言志」とあったり、「古詩は其の事を直言して」云々(同・南巻・論文意)とあったりする「直」であり、それらの「直後」「直言」こそは『古今集』の仮名序に言う「ただこと歌」の「ただこと」にほかなるまい。
興:「その心あまりてことば足らず(古今集仮名序在原業平の註)独詠の認識、雑歌というより反雑歌である。言葉を尽くしても尽くしても表しえない心」
ジャック・デリダ『詩とは何か』「総展望フランスの現代詩」思潮社一九九六
1.記憶の節約 2.心ということ
作者の創造力は残念ながら必ずしも作者の意志に従うわけではない。作品が作品自体のなしうるものにしかならず、独立したように、それどころか無縁なもののように、作者に相対することがしばしばある。(S.フロイト『人間とモーゼと一神教』)
(純粋空想じゃないから「モノ」に囚われた空想が荒ぶるわけだ)
やり方といものは内在的なものである。つまり現象の相合一致性は、その現象自体からしか展開されえないような意味において、その現象の真理の保証人ともなるし、非真理の酵素ともなる。その矛盾の指導的カテゴリーは、それ自体、二重の本質をもっている。すなわち、作品が矛盾を形成し、そのような形式のさいに、その形式の不完全さのしるしのなかにまたしても矛盾を出現させるということ、これは作品の成功の尺度であるのだが、同時に他方では、矛盾の力がこの形成を嘲笑し、作品を破壊するのである。
この種の内在的な方法はヘーゲルのように「純粋注視」に頼ることはできない。「純粋注視」が真実を約束するのは、ひとえに、主体と客体の同一性という構想が全体をにない、考察する意思が、対象のなかで完全に没すれば没するほど、ますます自己を確信するようになってこそなのである。主体と客体の宥和が、客観的秩序のなかで主体の清算という、悪魔的なパロディーに転倒されてしまった歴史的時点において、なお宥和に奉仕するものは、宥和のまやかしを侮蔑し、世をあげて自己疎外に抗して、もはや「事柄自体」にはほとんど代弁してもらえないところの、絶望的に疎外されたものを有効にする哲学だけである。
しかし一方、この取り扱い方は、かつてのヘーゲルの方法同様、肯定的な超越性をドグマ的に頼りにすることは許されない。その対象と同じように、認識も一定の矛盾にしばりつけられているのである。
(全てを付け句で考えること)
心は遊離せず乱れ霧散する
魂は遊離する
神々に呼びかける唱謡類を取り囲むような説明体系を〈神話〉の生成と認定しよう。
思へども身をし分けねば目にみえぬ心を君にたぐへてぞやる 伊香子淳行 三七三歌
つづく