はじめに
人が言語をどのように習得していくのか。誰もが通ってきた道でありながら忘れてしまった「母語の覚え方」
バイリンガルの方や第二外国語習得者、もしくは多言語ユーザーなどの皆様におかれましては、それぞれの常識、非常識があることと思いますけれども、そういう体験がない私には、専ら研究者の方の労作に頼るほかはありません。
で、手に取ったのがこの本でした。
帯の惹句がまた、すばらしいではありませんか!
「タブララサ」信仰は崩壊しておりますが、では子供は生得的に「言語」を獲得するための、どのような器官構造を持っているのか?
ワクワクしながらページを開きました。小さな字でかいてある「普遍文法に基づくアプローチ」という文言は無視していました。
生得的=器官構造
生得的であるものとは、「器官構造以外にない」と私は考えています。それは「モノ」として備わっているという意味です。
言語獲得とは、つまりは「脳」の外界のシンボライズ機能にかかわるものだろうと、推測していました。
記憶と類推による既存言語の獲得。
すべてのものに「名前」が決められており、それらの名前は他の名前との間に、あらかじめ限定的な関係性をもつ、差異としてのみ相関的に認められるものである、がゆえに、その関係性を示すための「文法」が整備されていった。
と、そんな風なロードマップを、ぼんやりと考えていたわけです。
この人間型の存在物が外界として知覚しうるモノとそこからはじき出される形で形成される「我」との関係性を含んだ、相関(縁起)を、認知しつつ認識する分別こそが、「言葉」なのだと、思います。すべては「形」と「環境」ということで、ユクスキュルの環世界説になっていくわけですが、それはまた別のお話で。
名前と文法
子供の言語獲得の方法と、言語そのものの発生過程は、似ているのではないのか?と同時に私は考えていました。
言語とは、ルールを定めながら遊ぶゲームのようなもんだと、ヴィトゲンシュタインさんを気取ってつぶやいてみたり、言語とはクッキー生地を、一度に、恣意的に型抜きしたもので、型と生地の間に厳格な結びつきはなく、それは他の型との違いによって、唯一の名前として確立する。とかいう話を思い出すとき、「名前」はそれでよいが、その名前同士の関係性を操作する「文法」はどうなのだ?
という次の疑問に突き当たるわけです。
ここの「言葉」を離れて「文法」は存在しうるか?
「名前」と「文法」とは同時発生するのか?
アボリジニの方々や、ピダハンの皆様とかの言語研究が、こういう場合には有効となると思うのですが、今回読み飛ばした本書は、それを「普遍文法」に基づいて実証研究を行った記録だったのでした。
普遍文法(Universal Grammar:UG)
あ・え・て、ググらない。知識としては、全言語に共通するウルテキストの文法みたいなものがあるみたいな? という、チョムスキーさんの説だということぐらいで、コンピュータ言語の話かな、という程度。
本書によれば
母語獲得研究とは、幼児は、なぜ、そしてどのように、母語の知識を獲得できるのかを、母語獲得前後の知識の状態の知見を、「生成文法理論(ノーム・チョムスキー)」を用いて研究する。
という。それは、つまり
ヒトという生物種に、遺伝により生来与えられている母語獲得のための仕組「普遍文法」が存在すると仮定し、成人の持つ母語知識を研究することで、普遍文法を見出そうとするもの
だそうなので、仮定が実証されることで、「普遍文法」の方を証明したい、という目的が主なのだなと、読めた次第。
本書では、普遍文法が母語獲得を支える一要因として機能しているか否かを検討する。
というのが、主旨である。
母語および、本書の論旨
・母語とは言語の母体(古代共通言語的な)ではなくて、「母国語」を意味する。
・母語は、子供に心神的な障害や、子供を取り巻く環境に特殊な状況がなければ、誰でも自然に身につけることができる。これを、種均一性という。
・ヒトの母語は階層的構造を備えている。これを種固有性という。
・外界との情報のやりとりを支える内的なしくみを「こころ」と呼ぶ。
・母語は後天的に決定される。
・幼児語の存在は、言語経験がそのまま蓄積されていくものではないことを示す。
・子供が、貧しい言語経験によって大人と同じ母語知識を得るのは、生得的に普遍文法をもっているからである。(プラトン問題(『メノン』。イデア論などへ)
・母語獲得のための内的メカニズムが「UG」である。(=「こころ」だと?)
読み飛ばす各論
これは、茨の道だ、と思いました。
UGは、ヒトが用いるすべての言語に適用されなければなりません。地球上の多様な言語に共通性を見出さねばなりませんが、たとえば、日本語は英語とははまったく異なります。
私は、あらゆる言語が翻訳可能だという観点からUGのような存在を想定しうるのかも、と考えていた時期がありましたが、それは「ヒト」の活動原理が似通っているから可能なのであって、言語的近似性とは無関係なのだと今は、思っています。
他動詞文に見られる、S+VPの階層性
1.Susan hit the table and Bill did ,too.
2.John hit the table and John did the chair,too.
の文例において、1では、the tableを省略できるのに、2ではJohn を省略できないのは、違う主語に同じ目的語がつく場合に、目的語は省略できるが、同じ主語に別の目的語がつく場合は、主語も目的語も省略できない、という主語優位の階層性を持つためだ。
日本語においては
1.こどもがマンガを読んでばかりいる。
2.こどもばかりがマンガを読んでいる。
の区別ができるのは、「ばかり」の結びつき方において主語優位の階層性を持つからだ。(英語のonlyの場合も同じ)
このように、英語と日本語は同じ階層性を持つことは、UGの存在仮説を裏付ける。
というのですが、階層性と語順の違いというのはどうなのかなと、素人ながら思うわけです。形容詞が名詞(節)の前か後かの問題は、高さの構造を持ち出さなくてもいいのではと。
また、日本語の例で、
3.こどもがマンガばかりを読んでいる。
を並べたとき、1と3とは構造的に区別がつかないことになりはしないでしょうか?意味合いは異なるはずです。
上記を踏まえての実験
そして、三歳から四歳のこどもに対して、この「階層性」の知識の有無を調査するわけですが…調査はすべて、会話や、穴埋め文章問題で行われます。
単純にいえば、子供たちが、AがBを好き。AをBが好き。を区別する知識をもっているか、「が」「を」を正しく使い分けられるか、という調査なのです。
結果八割が正解したので、大人と同等の知識を持つから、生来的に持っているUG知識が、役立っている、という結論を導いています。
ですが、この「てにをは」は、言葉を覚え始めてから、もっとも執拗に訂正される事柄ではなかったでしょうか?
今回の結果が、生得的なのか、教育によるものなのかを、厳格に区別できる調査だと、納得することが、どうしてもできませんでした。
ベクトル
「モノとモノとの関係性」を表すことが文法の仕事だとすれば、「てにをは」はその根幹です。私たちはこの重大性を知っています。
赤ん坊のころ、まだ内外が不可分なころから、私たちは「感情のベクトル」に敏感ではなかったでしょうか?
こちらに向かってくるのか、あちらに向かっていくのか。また自分の前を右へいく、左へ行く。特定に何かにむかう矢印。特定の何かを避けていく矢印。そういうベクトルを感じることが「UG」によるとは、私には思えません。強いてあげれば「脳の構造的特性」としてあるのではないかと思われるのです。
そのベクトルこそが「文法」の基盤だと、私には思えるのです。上下の階層性は、もっと後の話ではないかと。
UGを持ち出したために、日本語と英語との共通性を求めなければならない無理筋な方向性に、私はほとんど、興味を失いかけていました。
構造依存性
続いて、英語における「助動詞 will や can を用いた平叙文を、Yes/Noで答えられる疑問文にする規則を、
「平叙文において、主節にある助動詞を前置する」が得られる、という例を出します。 この「主節」という条件は、文の節の高さ(構造)レベルを含むものです。これを、構造依存性といいます。
そして日本語にも、この構造依存性がありますよ、ということで数量詞遊離性を並置しています。
1.三人の学生がその本を読んだ。
2.学生が三人その本を読んだ。
3.学生がその本を三人読んだ。 ←これは×、になる規則は?
「数量詞とその先行詞は構造的に姉妹関係をもたねばならない」
三人の学生。学生が三人。はよいが、その本を三人。は姉妹ではないというものらしい。
で、この「姉妹関係」というのが構造に言及している規則だから、日本語にも構造依存性がある。よって、UGの証明となる。って。
英語では、助動詞の疑問文の条件で、日本語では数詞遊離の条件じゃ、どこからとってきてもいいということになりはすまいか?
実際、本書後半では、英語ではなくて韓国語との対比を持ち出したりして、どうにも「使えるところをそこらじゅうからもってきてる」感がしてしまって。
生得的なら言語経験から学びとる必要はない
Q:と言っているにもかかわらず、なぜ母語言語獲得に時間がかかるのか? また幼児語がある理由は?
A:UGは、全言語の条件を網羅したリストだから。
だから、自分が後天的に獲得することになる母語に相当するチェックリストを整えるのに、時間がかかってしまうのだ。と
つまり、UGとは、パラメーターなのだという主張です。
それ、遺伝子のどこにどうやって記録してあるのかなと、素朴に思ってしまいます。それは膨大なリストのはずです。あらゆる言語の規則に対応し、すでに失われてしまった、「中動態」なんかも。それが脳にあらかじめ作られていて、必要な項目をONまたは、OFFにすることで、あとは母語の語彙が流入すれば的確な文法によって駆使できるという主張ですが。
それなら、第二外国語とかの取得のときも、そのリストを活用できないものかと思うのです。子供の脳の可塑性? とか持ち出さないでください。UGの助けなしには、母語獲得がままならないほど、固定化した脳の話を、ここでは展開しているわけですから。
UGの意義
たしか、比較言語核かなにかで、さまざまな言語を調査して、AとBの区別のない言語ではCとDも区別していない、とか、Aという色名がないところでは、Bも存在しないとか、そんなような研究があって、言語の発展段階のようなものが現れると、聞いたこともありますが、その種族やその地域、そのライフスタイルにおいて不要なものは発生も発達もするはずはありません。通時的発展というものは、仮定的各論だと思いますが、
UGのパラメーターとは、ヒトの文化文明の過去未来のすべてを網羅したチェックシートであることを求められています。
そういうものを「仮定」し、さまざまな言語を相対評価することは有効だと思いますし、そこから「理想的言語」のようなものを空想するのも楽しいでしょう。それは、「ユートピア思想」につながります。また、ブッダの言葉、キリストの言葉、神の言葉、動物達の言葉を推測することもおもしろい。
それは、UGを仮定することで広がる研究内容だと思います。が、UGのUは、UFOやUMAのUとして捕らえておくのが、いいなと、私は思いました。
これが、この本を読み飛ばした理由です。
さいごに
ノーム・チョムスキーさんによる「生成文法理論」を、いづれ検索したりしてみようかなと思います。