望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

なんとなく比喩語る

はじめに

『なんとなくクリスタル』を読み返し始めて、まあ、面白いこと。まだ本文始まって4ページくらいですが。ブランド名、商品名、曲名、地名など、あらゆる固有名が象徴する「時代」感覚。

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 当時は、単に「おちゃらけ、表層的、イメージ、ぶちまけられた記号、カタログ。内面の無さ、アソビ」みたいに捉えていて、軽くて面白いよね。脚注とかで遊んでて。だったのだけれど…

 2018年にもなってくると、モダンからプレモダンへ逆行して、封建制度万歳みたいなご時勢に。それがすべて間違って加速していく、死ぬまで働かなければ勝手に死ね、の世の中。とこれはいつもの愚痴になるので、いづれまた。

 比喩と象徴については、前に書いた気がするけれど、忘れた。『なんとなくクリスタル』は、たまたま今日手に入っただけなのだけど、「固有名」「象徴」「意味と記号」というターム(!)はきちんと表れていて、さすがは後の変態ペログリであると。

比喩との遭遇

 生れ落ちてすぐ、そこが「比喩」の世界だと気づかされる。「言葉」によって。言葉は名前だ。そして名前はすべて固有名であった。

 名指す固有名と、名指される事物を結びつけることが、言語習得の根本だ。

『言語は必ず他(多)言語を前提する』(『闘争のエチカ』)
また、『母語は必ず二つ目の言語である』(『エコラリアス』)※引用はすべてうろ覚えである

の観点から、言葉は「イメージの記号」なんだという、廉価普及型の言語論が蔓延するのだと、蓮實重彥さんは警鐘を鳴らしていた(『闘争のエチカ』)※最近拾い読みした 『言語は言語についていくらでも語れる。それは言語の無根拠性を見ずにすむ安全地帯に後退して、言語をイメージとして語っているからだ。言語について考えるとは、言語によって言語を考えるという底抜けの無根拠に、恐れ戦く体験でなければならない。』(同書)みたいなことを言っていた。と思う。※確かじゃないと何度も書く

 幼稚園の図書室に籠もって、先生が探しに来るまで本を読んでいた経験からして、「比喩」は読書暦にかかわらず理解可能なものだった。

 「別の名前で形容すること」比喩とはそれだった。

 飛躍があればあるほど、そして両者を並べて対比したときに、類似性が際立っており、かつその類似性が、形容された側のさらに奥深くを抉り出していればいるほど、その比喩は機能しているのだといえる。

 と、幼稚園の私は『まんじゅうこわい』や『ガラガラドン』を読みながら、おそらく理解していたのに違いない。

 丸丸とかけまして、罰罰と解く。その心は? どちらもチョメチョメです。が、比喩の基本構造だ。

 だがそれは「理解」ではなかった。「そのように喩えることが言葉なのだ」と学習していたのである。

「犬みたいな猫」という文章をみて、そのように示されているものが「犬か猫かおっぱいか」を区別するのに、混乱をきたすことは無かった。

 言語とは比喩の体系である。からだ。

 その上で、初めて「比喩に遭遇する」という経験はいつだったのかを考えると、たぶん、『風の歌を聴け』だったのだと思う。因みに、『限りなく透明に近いブルー』は、初めて「象徴」を意識した小説だったのかもしれない…

村上春樹さんとあだ名

 イワシ命名される猫。墓石というあだ名をつけられる高田信彦さん(by 有吉さん)。これを比喩と呼ぶのは少し遠回りが必要だった。

 猫はそれまでの扱われ方から、そう命名されたのだったが、そもそも、飼い猫の名前が必要かどうか、という話から、喩えとしてたまたま持ち出されたイワシが名前に転用されたのであり、ネコをあらわす比喩にふさわしいものを探していたわけでもなかったからだ。

 あだ名は「比喩」であったり「象徴」であったり「キャッチフレーズ」であったり「座右の銘」であったりを含む。

 高田信彦さんとかけて墓石と解く。その心は?

 これは「象徴」ではいけないのか?

 私はこれは「比喩」だと思う。なぜならば、高田信彦さんと墓石との間を、共有されるイメージが、確実に、仲立ちしているからである。

 そのイメージを、具体的に語ることは難しい。なぜならばそれは、漠然とした共有イメージなのであって、「でかい」も「かたい」も「動かない」も「記念碑的」も、名指した途端に、それ以外の共有イメージの欠落が意識されてしまうからだ。

 それが暗喩である。

 暗喩は実はひじょうにズルい比喩だと思う。宮崎僧侶(『ブッダの箱舟』)は、仏教と野球の類似性について語ったが、これは、野球に仏教というあだ名をつけたのと同じだった。そして、それは、プロレスとあだ名してもほぼ同じことになると指摘される。

 両者がもたらした影響の類似性によって並置しうる関係を「比喩」と呼ぶ。だから、言葉は「事物」と「固有名」を並置したときの同義性によって、成立しているので、「比喩」だというのである。

絵画という比喩 数字という比喩

 言葉が、眼球にべったりと張り付いて視界そのものを奪ってしまうものとして捕らえなければ、言葉の上空を浮遊するだけに終わる。(『闘争のエチカ』)※―

 『エコラリアス』が、言語以前の言語。言語を言語たらしめた忘却された言語へ至る身振りだけで、その場所に遠く及ばなかった理由がここにある。

 では、絵ならばどうか?

 絵画は、事物の似姿であり、かつ、事物そのものではない。だから、言語と同じ『比喩」の体系を持つ。言語との違いは「体系化、組織化」の粗密にある。

 絵画にもコードがある。人間の身体的、文化的、技術的な制限を負う。

 「ビジュアルノートテイキング」という運動があって、それは「人間、考えてるときは、言葉だけではなくて、映像的、図式的に思考するんだから、それをそのままノートしようぜ!」運動で、私も一時期取り入れたが、結局私は、「言語で思考するヤーツ」だったため、捨てた。

 「言語で思考」する時は、言語を道具であるかのように用いる。(これは比喩だ!)そして、道具であるかのように用いることができるということは、その時私は、言語そのものを問題としていないのだということを自覚している。

 で、絵画である。どの程度詳細に伝達できるか? 文字が読めない人間に判じ絵という手がありますよ! といってもそれは結局、文字を音声言語に変換しているだけで、結局は言語化しているので、それは絵画ではない。言語そのものだ。

 写実絵画が、もっとも比喩的であるようで、もっとも比喩を離れる可能性をもつ。というのが写生文至上主義者である私の主張だ。

 「心。内面」なんぞ持ち出すならば、実際に血が噴出させてみろといいたい。それこそ「心。内面。精神。魂」という言葉のイメージをもてあそんでいるだけだからだ。

 そこで、システマティックな技術論が導入される。

 キュビズム未来派、フォービズム、点描派。そこには「手癖を離れて真相へ至る」という目的がある。手癖とは、慣用句であったり、慣用的となってしまった陳腐陳腐陳腐な比喩だ。

 プレバト見てれば、夏井先生がいつも怒っているではないか。

「紅葉を燃えると書いて才能ナシ」

 だから『エコラリアス』で取り上げていたように「カタコトのほうが詩にふさわしい」という、一見、悪人正機説みたいな極論が出てくる。だが実際に、私たちは「佐藤優樹さん」という実例を知っているだけに、この説には納得できる。※最近、佐藤さんは言葉に自由になられたと感じます。カタコト名言期(仮)はとっくに過去のものですね。

 『アポロ13』で作ったフィルターが、正規品より高性能であるわけはないが、フィルターを製作するために、使えそうな材料を、それまでの使い方を離れて、じっくりと検討する、という姿勢において、カタコト説はブリリアントな午後なのだった。

数学という比喩

 となれば、すべてを数式であらわせば、イメージを離れられるかな。というのがちょっと前までの主流だった。科学万能説。問題点は、わかりにくい。おもしろくない。

 シュレディンガーのネコなんて、死んでるか生きてるかわからない猫が箱に入っている話だ、とかいつまんでもらった途端に、「あたりまえじゃん」ということになる。「だから、半分死んでて、半分生きてるネコが、箱を開けるまでは存在するんだよ」

馬鹿なの?

 これは、文学への変換の稚拙さに起因する、誤解なんだと思いますが。

 数学だって、事物との対応(時には事物の対応を予言)するわけだから、立派な「比喩」だ。「比喩と引用」こそが数学だと、思ってるのね…よくわかんない世界だけど

 モデル構築、ってそういうことだと思う。この世界の存在を、数式に当てはめて説明して見る。絵に描いてみる。エッセーにしてみる。文学やってみる。作曲してみる。路上でパフォーマンスしてみる。などなど

忘れてた!

いいたかったのは、

①未知を既知なものにたとえて説明しようとする比喩が大嫌い。

だが、言語習得とはまさにこれだ。したがって、文化とは比喩から成るといえる。それは継承される。新たな文化を語る新たな言葉が必要だ。

↑ 抹消部分

これは「言葉を記号と捉える」考え方で、「言葉を変えれば世界を変えられる」という、お気軽神秘主義を召喚する安易なものであると『闘争のエチカ』に書いてあった。(言霊、カバラあたりの話はまたいずれ)意味するものと意味されるものとの関係は、恣意的であり、かつ分離不可能である。あたかも、ロバート秋山さんの、体モノマネ(お面ver.)で、気軽に被ったお面を剥がそうとするときの、粘着性の抵抗力が、それを示していた。秋山さんの場合は、演出上、お面から顔をのぞかせることができるが、言葉とモノとの結合はより一体化しており、仮面の下を垣間見ることすらままならない。そのままならないことを成し遂げようとするのが、宗教(科学を含む)である。

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一方で、言葉は時代によって、使う人間によって、変わっていく。その場合、あの強固な粘着力はどこにいってしまうのだろうか? 

未知なものを既知なる言葉で表すのが比喩なら、既知なるものを新たなる言葉であらわすのもまた比喩であるといえるだろうか? それは、別名、源氏名、またの名であるにすぎず、結局はイメージの戯れにすぎないと、切り捨てていいのだろうか?

『エコラリアス』にある「母語」が「隠れた名前」であるとするなら、「固有名」とは、すでにして「二つ名」であり、複数のあだ名の一つであり、様々なる意匠である。

さきほど書いた、恣意的な結びつきの相対的絶対性(書いたっけ?)も、結局は、そのような刷り込み効果なのではないか。それこそが、仏教の「遍計所執性」であると、そんな感じでいってみよう。(いずれまた)

あるあるネタに落とし込めるような比喩は大嫌い。

③不親切な公認会計士のような味のするパン(※だったかな?)は閉じた比喩。

限りなく透明に近いブルーは、象徴であって比喩ではない。

⑤比喩は、きちんと機能しつつ双方をクビキから放つものであってほしい。

⑥比喩が機能しているとき、括弧にくくってある部分のあることを忘れてはならない。

⑦詩は比喩ではなく象徴によって書かれなければ、世界から逃れることはできない。

⑧うまい比喩は、ダジャレよりもマシ。

⑨比喩を過信するな

ってことでした。では書き逃げ。