望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

隠喩的でない世界などない ―『ヴァレリー芸術と身体の哲学』の「序」を読んで

はじめに

 広義における身体による芸術表現を考えるとき、必ず引き合いに出されるのがヴァレリーさんだ。そこで、タイトルの本を借りて読み始めている。

bookclub.kodansha.co.jp 伊東亜紗さんは、『どもる体』も書いており、他にも、私にとって当面、重要な仕事をなさっている方である。

 4月から職場を移り、時間の使い方が定まらない時期であることから、一向に読み進めることができない。そこで今回は本書の「序」を読んだ感想をまとめておく。

隠喩的世界

 最も重要なのは「詩」である。「詩」とは、我々の周辺に「詩的」な現れ方をする。その際「詩」は「意味」という「全体を限定していくもの」としてではなく、逆に「限定され、分別された世界を重ね合わせるもの」として響くのだが、その響きをそのまま再現する術を我々は持たないため、「詩的」なものとしてとらえるしかなく、それは「暗喩」という形式をとることが多い。

 それは本書にあるように、この世界の現れそのものが本質的に詩的であることから生ずる当然の帰結なのだ。

 「詩的世界」を「意味」で分別して理解することによって、我々は科学的なのであるが、この「意味」とは「意味的」と言い替えるべきなのである。そして、「意味的理解」はさらに細かく分類され、その上で種類別な集合へと組み込まれる、いわばツリー状の体系を成す。

 わたしは、この「霊長目真猿亜目ヒト上科ヒト科」。という名称に、むしろ詩的なものを感じさえするのだが、このように特定のモノを示す体系とは、ひじょうに「間接的」だ。一方「隠喩とはより直接的かつ横断結合的な理解をもたらす働きを担っている。限定によって区別するのではなく、「可能な意味の無限さ」によって「意識を煽る」「読者の思考のプロセスそのものを作ってしまう」そのようなものなのだ。

パフォーマティブ

 「ヴァレリーの創造的行為は、書くという狭義の創造が終わったあとの過程をも含むと考えるべきではないのか。

 もちろんそれは作者の手のおよばない領域だ。しかし、手が及ばないからこそ可能であるような創造もあるのではないか。ヴァレリーの「もう一つのプロジェクト」とは、そのような創造後の創造に関するものだ(p26)」

 こうした記述に、東浩紀さんの存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』出版時の『批評空間』での対談を思い起こす。

 こうした創造後の創造に不可欠な要素が、身体と時間であり、作品とはその仲立ちをする「装置」という位置づけを得る。

「装置の目的は、身体的な諸機能を開拓すること。身体を解剖すること。「作品論」と「身体論」を「時間論」が繋ぐ」

 おそらく、こうした仮設から、さまざまな行為と行為間の時差が取りざたされることになるだろう。知覚の、感覚の、認識の、想起の、言語化の、書字することの、読むことの、出版することの、流通することの、読者が読むことの、そしてテキストとしての、作者と読者間の、時差と、その時差を可能にする媒体の存在、すなわち「肉体」との。

純粋さとは

このあたりから第一章に入っている。

「C=E・ジャンヌレ、A・オザンファンらの「ピュリスム」は、キュビズムの主観性を批判し、機能が純化された絵画を主張する運動を提唱した。

小説ではアンドレ・ジッドの『贋金つくり』

そして純粋詩とは、散文的要素を排除した」詩であるという。

散文的な要素とは、一言でいって「描写」だという。

「描写」は、対象を視覚的に指示する技法だが、ヴァレリーさんは「わたしは自分が見たものを書くことは嫌悪を覚える」と言っているそうだ。この言葉は即座に、塚本邦男さんの「自分は生活詠などしない」という態度を思い起こさせる。

 一方で、わたしは俳句の「即物詠」を信奉している。「詩的」でも「意味的」でもない「表層」そのものに、存在の本質であるところの「詩」と相まみえることができるのではないかと思うからである。相まみえる可能性がいかに低くとも。そうした態度とは別の「写生」について、先日読んでいた「新興俳句 なにが新しかったのか」の三谷昭さんの「私の俳句作法は、目で見たものをそのまま句にということをしない。目で見たものは頭の中にしまっておく。そのしまったものがある時間を経て、自分の思いと結びつき、やがて一つの発想となって浮かんでくる。だから、しばしばわたしの句は、回想といういろどりを帯びることになる。(「毎日新聞」〈私の作句作法〉昭和52年4月13日)

また、『橋本鶏二の百句 写生とは何か』中村雅樹 ふらんす堂 も少し読み進めているのだが、そこには「写生とは即物写生ではなくそこに、作者の感じが入っていること。感じの働きがあること。感じを具体的にすることが写生だ」というようなことを言っているとあった。本書については後日とりあげるが、これらに共通するものは、

「身体」と「時間(時差)」による作品化、である。

 ところで「描写」はなぜ「純粋詩」から排除されねばならないのだろう。「最高の美描写も決して人が観察したものを復元せず、物事を見なかった第三者が形成しうるものを復元する(p44)」

 この指摘は重要だ。人は言葉によって全く同じ事物の景色を共有できない。なぜなら、言葉とは「意味的」でしかなく、事物を完全に限定することは、①指示することの不可能 ②説明をする者と受ける者とが保有しているデータ(記憶)の不一致、の二点による。限定しつつ限定しきらないことによって、意味は辛うじてその働きを全うしており、そのような不完全なシステムによって、作者が勝手に想定した人物、場所、時間を伝えらえるというあまりに楽天的な姿勢の表れだからだ。

「詩人は詩想の消え去るのを防ぐために「文字」をもって、これを「空間化」する。即ち時間的なそれの「空間化」を志向しなければならぬ。「空間化」とは「空間的に停止するもの」ではない。即ち「固定」ではない。それは常に、その位置に於いて、「渦巻いて位置する」ものだ。その「文字」は「象徴としての文字」でなければならない。(「太陽系」〈詩語としての季語〉昭和22年 6号 富澤赤黄男)の言葉も、このことを含んだことを言っていると思う。(渦巻いて位置する。についてはまた後日)

詩は詩的に現れ、意味は意味的であり、文字もまた文字的な記号だと認識すべきである。

 とりわけ、俳句は、読者のリファレンスに相当を頼る形式である点に留意しなければならない。季語はその最たるものである。

モーリス・ブランショのいう「遺骸的類似」のことを、勉強しなければらない。

おわりに

詩的なものは詩の中のみにあるのではない

「詩的な感じは、言語手段とは全く異なる手段、たとえば建築や音楽といった手段によっても喚起されうる。なぜ詩的な感じはジャンルを超えるのか?

 「詩的」とは「身」と「状況」のあいだにある一致から、自然かつ自発的に生じる」と、最後に当たり前のことを抜粋して、今回のブログを終える。