望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

身体を離れないこと ―『舞踏のもう一つの唄』を読みながら

はじめに

モーリス・ベジャールさんだ。

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舞踊、武道、音楽、体操(スポーツ)に関する達人の方々の言葉はとても重要だ。なぜならば、そういう方々は身体を熟知しようとする方々だからだ。

私たちは身体として存在している。この存在の不思議に詩があるのだとするのなら、身体こそが詩的なのだといえると、私は考える。身体をつきつめればつきつめるほど、存在は陽炎のように揺らぎ始める。

その揺らぎをわたしは「空性」と呼んで、それに触れている言葉を蒐集しているのである。

光と音楽

また、この二三年の間に、私は「視覚」から「聴覚」「嗅覚」へと関心を移しつつある。(「触覚」こそが最大の感覚である、という認識は揺るがない)

視覚は饒舌すぎるからだ。それはあたかも言葉が饒舌過ぎることと似ている。その饒舌に煙に巻かれるのを防ぐためには、黙っていてもらうに限る。とはいえ、神は初めに「光あれ」という音(それは言葉以前だった)を発したことと、「絶対の一」に分節をもたらしたのは「風」という「音と触覚によって感知されるコト」であったことを銘記しておかねばならない。まず、重要なのは「光」よりも「音」である。だから、「目」は音を視る「耳」であり、「耳」は触覚を聞く「肌」なのだ。しかしこれらについてはまた別の話にする。

蒐集された言葉

音楽が光なのか光が音を生み出すのか私にはわからない。この二つは深く密接に結びついている!(p18)

耳で音楽を聞き取ることはしない。音が指の先に浸み込むのを感じるのだ。(

p19)

(この庭の匂いについてはさらにもう一章書くべきだ……多分)(p37)

これらの言葉は、音=光=触覚という感受を意味している。そして匂いの重要性にも十分に気付いていることが分かる。

われわれは器官とその機能が貧弱なために、妖精の世界を感知することができない。
あらゆる物語(コント)は、到るところにあり、しかもどこにもないこの故郷の夢でしかない。
あるモラル、ある法的脈絡以外、何ものもコントと対立するものはない。
コントには真の自然なアナーキーが君臨する。抽象世界―夢の世界……
コントは完全に音楽的である ノヴァリス (エピグラフ

この肉体の理解と肉体に理解できない妖精の世界と、そこに展開している「ダルマ=法」は、音楽的だ、という認識が読み取れる。

達人たちの身体を通した認識はほぼ仏教的な宇宙観に酷似する。

わたしはひとつの宇宙を構築する。
しかし言葉によってそれを具体化しなければならない時、すべては崩壊する。言葉が裏切る。(p152)

言葉と思想の間の何という隔たり!(p152)

音楽は言葉よりもって正しい方法で語る。(p154)

表現の大半は「言葉」によって行われるが、この言葉という二重に不完全な貧しい比喩の体系が、身体を通して聴き取った詩的な響きを崩壊させてしまう。言葉を離れることによって、より身体に寄り添うこと。踊り、歌うこと。

色即是空

存在したい……そしてたえず依存したい。(p154)

 

私というものはいない。
たくさんのものがある。それはあそこに、

      そしてあそこ、

           あそこ、   ここ

            こちら、

               あちら、

         そちら、

       そこにも、                 そしてほかにもある。

これらのものは再び集まり、形を変え、消え失せ、再び戻り、融解し、違った形でまた現れる。
同じもの……そして同時に別のもの。(pp154-155)

  これらの記述は「生・住・異・滅」「依他起生」「輪廻」「一即全」に関する認識と捉えられる。これらは本来は共時的でありそのような認識が可能であれば、それは一切変化しないのであるが、「われわれの器官が貧弱」であらゆる存在を経時的にしか認知できないため「変化」を認識してしまうのである。

舞踏について、わたしはまったく門外漢なのだが本書を読む限りでは、身体訓練による重力からの解放と、言葉の排除によって「同じもの……そして同時に別のもの」を表現しようとしているのだと思った。キーワードは「同時に」だろう。音楽が展開された空間なのだとすれば、舞踏は空間に展開された無時間であり、「あらゆる物語(コント)は、至るところにあり、しかもどこにもない」というのと同じ「妖精の世界」なのである。

密教

無。
非活動的でもなく否定的でもない無。
無。
それは完全な統一性、唯一の真の統一性をもつためにこの見せかけの世界を分割することをあきらめる無である。(p157)

このように書かれる豊穣な「無」とはすなわち「空」、しかも密教的な「空」に他ならない。

だが、それにもかかわらずこれらの見せかけを軽蔑しないこと。あらゆる形の禁欲主義によって美を拒否することは冒涜であり、それによって人間は神性を見る可能性か遠ざかるのだ。(p157)

身体という「貧弱な器官」の存在するこの世は、分割された見せかけの世である。仏教には、このような現世はすべて迷妄として捨て去るべき、という教えもある。だが、こうした不完全さこそが完全への手掛かりとなるのだという面を重視するとき、「これらの見せかけを軽蔑」せず、その「美」を追求することが「神性」に至る可能性なのだとする「密教」の教えが、ある。私も現世を切り捨てるより、積極的に寄り添っていく密教のアプローチに賛同したい。

耳、そして触覚へ

揺らぎ。
言葉はもはや、縁の底知れぬ深淵を通って私を運ぶ唯一の音にすぎない。(p235)

言葉とは、貧しく、不自由な、比喩体系、すなわち「意味」だったのだが、「悟る」ことによって、そういった属性ははぎ取られただ「音」という船となる。「揺らぎ」とは、意味の係留を解かれた言葉の不安定さ=自由闊達さを示していると考える。

「私のかかとが反り返り、私の爪先がお前を理解するために耳をすました。舞踏手は耳を持っていないのか……その爪先に!」(p240)

 台地というレコード盤を奏でるレコード針のように、舞踏する者の爪先は存在の音を奏でる。その音を最も間近に聞くモノもまたレコード針であり、その振動が音を伝えるのであるから、レコード針はその音そのもの具現化であるともいえる。したがって、舞踏する者は音そのものになる。

おわりに

ひじょうに示唆に富んだ読書だった。

身体=個を徹底的に追及するとき、身体と環境との境界は曖昧になり、個という存在も「存在」そのものと渾然一体だという感覚になってくるのではないだろうか。それは瞑想の効果と似ているのではないだろうか。

私はもう一つの音楽に向かって出発した。(p243)

まず言葉が意味を流出して音となり、さらにその音も変容していく。詩的なモノから、詩へ。舞踏家の探求は果てしなく続く。