はじめに
「現代俳句大系」を書き写していたとき、奇異な感を得た俳句を書く俳人があった。
写生句を中心に書き写しているなかで、その俳人の俳句群はとびっきり奇妙な、フォークロアというか、今昔物語的というか、ポンチ絵的というか、とにかく好ましいケレン味がぷんぷんと匂ってくるのである。
その俳人は阿部完市さんで、体系に収録されていた句集は『にもつは絵馬(1998)』であった。
わたしがこの句集から拾ったのはわずか十句。だが、その不思議な風合いはずっと胸中に残っていたのである。
安倍完市さんという俳人
わたしは作家には興味をもたない。
なので阿部さんがどのような方なのかは全く調べていなかった。
今回、それまでとは違う観点から改めて阿部さんの俳句を鑑賞しようと思い立ち、ブログを書き始めるにあたって、さらに他の俳句を蒐集しようと検索をかけ、結果的に、その人となりの一部を知ることにはなったが、その面を深追いする気はない。
ただ、ひじょうに癖のつよい人物だということは分かった。
出版工房ひうち:燧 さんのブログ
週刊俳句より
始めに拾った十句
かなかなのころされにゆくものがたり
木から落ちるしづかにびわ湖に落ちる
はらつぱで衣裳衣裳とさわぎ居り
にもつは絵馬風の品川すぎている
夕焼けへインク瓶なげさんざん攻め
ノートとる月の野山の学生達
毒ねむらせ部屋中に滝落としてみる
夏終る見知らぬノッポ町歩き
町への略図にある三日月と白いバス
ひびわれた夕焼けわたる兎達
別の観点とは
今回、あらためて阿部さんの俳句に触れようと思ったのは、「メルヒェン短歌連作」を作りたいと思ったためだった。
わたしにとってのメルヒェンとは、サイエンスファンタジーの眷属で、なかでも「死(と)再生」をテーマとするもの、という位置づけをもち、アンデルセン、メーテルリンク、宮澤賢治、稲垣足穂、らの作品を念頭においている。
そこに阿部さんの句が、突如として蘇ってきたのだった。阿部さんの句にはメルヒェンがある、と思ったからだ。
そのような思うに至る経緯については、先日ブログにかいた「宮沢賢治さんの短歌」や「星野しずるさんの短歌自動生成 犬猿」を経験したことが大きな役割を果たしたものと感じている。
短歌の型
わたしは、短歌の型をもたない。短歌の文体を確立することができない。いつも場当たり的に、短歌らしき形式に似せることでしか、短歌を作ることができない。こうした、散文が偶然短歌の型にはまっただけという作歌態度をなんとか脱したい。その一方で、いわゆる短歌のコードに与したいとも思わないのである。
そうした中で、阿部さんの俳句に感じた違和を、短歌にもちこめるのではないかと、そんな風に思った。
阿部完市さんの俳句(追補としていくつか)
馬が川と出合うところに役場あり 『軽やまめ』
白菜やところどころに人の恩 『阿部完市全句集』
鹿になる考えることのなくなる 『同上』
すきとおるそこは太鼓をたていてとおる 『にもつは絵馬』
栃木にいろいろ雨のたましいもいたり
きつねいてきつねこわていたりけり
しもやけしもやけまつさかさまである 『水売』
わたしらいそぐかんざしかくしてある山奥
三月の紙でつくつた裏あける
不発弾ひとつはこんで馬帰る 『水売』
今晩かならずこの白百日紅あふれます 『純白諸事』
おわりに
俳句は永遠の瞬間を留める器として、写生を基本としていきたい。その意味で、「創作」という思いはほとんどない。
しかし短歌は、ファンタジーの器として用いたいという欲があり、「創作」するものと考えている。
無論、どちらも「詩」でなければ無意味だ。
これらを肝に銘じて、俳句を拾い、短歌に迷っていきたいと思っている。