はじめに
実作では全くそれを顕すことができていないにせよ、俳句をどのようなもの捉えているのかについては、だいぶまとまってきた今日この頃。
前回は『俳句の世界』を読んだ感想を書き、今週はもう一冊の方をかこうと思うのですが、まだ全然読めていません。なぜならば、本書の6本目にあった寺田寅彦さんの「潜在意識がとらえた事物の本体」という俳句論に、グウの音も出ないほどの衝撃を受けて、その全文を書き写していたためです。
今回は、この論文の好きなところを列記するだけですが、まずは感想文を。
感想文の部
『俳句の世界』と同時に借りて読んでいるのですが、この二冊は互いに参照しつつ読むととても理解しやすいと思います。
正岡子規以降の100年の間に書かれた俳句論を洋の東西、職種を問わず集めた小論文集とでもよぶべき本書は、近代から現代において俳句をどのように位置づけ、どのような射程を望まれてきたのか、またそれぞれのismによる論戦の記録集としてたいへんにおもしろい読み物となっています。
とはいえ、私自身の俳句の位置づけと俳句の射程、すなわち俳句に望むものについてはだいたい固まっていて、それは本書に収蔵されている寺田寅彦さんの論文にみんなかかれていました。
実はこの、みんな書かれていた、という点に大きな衝撃をうけまして、私が何か事物について考えるようになったきっかけの、柄谷行人さんが、夏目漱石から始めた人であり、かつ寺田さんもまた漱石門下であったことを考えるとき、私の言説はけっきょく、夏目漱石さん以前のところをうろうろしているだけだったのだと気づかされた次第です。
本書のさまざまな俳句論、とくに俳人の方々が俳句という器をどういったものとして捕らえ、どういったジブツをその器に盛るべきか、その器で掬う、救うべきは何であるのか、それはどのように把握されるべきであるのか、俳句は芸術か否か、といった枝葉末節はどうでもよく、私は私の求める「一」の把握を実践するのみだとおもうのです。
別段「俳句」を擁護する義務もなく、革新する野心もなく、ただ華厳世界をそのまま文字に象徴させる器として「俳句」というひじょうに不自由な表現がマッチしているのではないかと思っているのです。
なので、寺田寅彦さんの論文はすべて書き写すことにして、あとのものは、写生に関するもの(それはつまり、写生批判ですが)を抜き出しておいたりすればよいかなと思っています。
それにしても、この十七文字にこれほど多くの人々が、口を出したくなるというのもまた、俳句にある何か、がそうさせるのだろうなと思いました。
列挙の部
※ → は私的なメモです。
「私を去った止水明鏡の心をもって物の実相本情に観入し、松のことは松に、竹のことは竹に聞いて、いわゆる格物致知の認識の大道から自然に誠意正心の門に入ることをすすめたものとも見られるのである。」
→ 写生です。華厳経です。
「この点で風雅の精神は一面においてはまた自然科学の精神にも通うところがあると言わねばならない」
→ 先入観をもたず、ありのままをとらえる姿勢。写生(スケッチ)です。
「この理想はまた一方においてわが国古来のあらゆる芸道(…)武道の極意とも連関している」
→ 則天去私
「西欧のユーモアと称するものにまでも人脈通ずるものをもっているのである。「絞首刑のユーモア」にはどこか俳諧のにおいがないと言われない」
→ 柄谷行人さんも、このジョークを「ユーモア」の例として用いている。
「これら(寂び、しおり、物の哀れ)はそういう自我の主観的な感情の動きをさすのではなくて、事物の表面の外殻を破ったその奥底に存在する真の本体を正しく認める時に当然認められるべき物の本情の相貌をさしていうのである。これを認めるにはとらわれぬ心が必要である」
→ 主観でなければ客観という二項対比ではない
「さび、しおり、おもかげ、余情等種々な符号で現わされたものはすべて対象の表層における識閾よりも以下に潜在する真実の相貌であって、しかもそれは散文的な言葉では言い表すことができなくてほんとうの純粋な意味での詩によってのみ現わされうるものである」
→ 詩
「(真実を)つば元まできり込んで、西瓜を切るごとく、大木を倒すごとき意気込みをもって摘出し描写するのである」
→ 流動体の断面が現実として現れているとの自覚
「この幻術の秘訣はどこにあるかと言えば、それは象徴の暗示によって読者の連想を刺激するという修辞学的の方法によるほかはない」
→ 象徴が暗示としてしか示されないところに弱さがある。
「最も卑近な言葉をもって言い現せば、恒久なる時空の世界をその具体的なる一断面を捕らえて表現せよ」
→ 流動体の仮設断面論
「本体を表現するに現象をもってせよ」
→ 物ではなく事である
「潜在的なる容器に顕在的なる物象を盛れ」
→ 五・七・五 はそこに文字(概念)がなければ空である。その空はインド哲学的な「空」であり、流動体はそこに断面として顕在する。
「近ごろの映画芸術の理論で言うところのモンタージュはやはり取り合わせの芸術である」
→ ブリコラージュ。二物衝撃。広義でのキュビズム。シュルレアリズム。そこに発生する「創発」:寺田さんは「倍音」と呼ぶ。
「芭蕉俳諧の取り合わせの特徴は全くこの潜在的連想の糸によって物を取り合わせるというところにある」
→ つかずはなれず
「浅きより深きに入り深きより浅きにもどるべし」
→ 禅。往還する。
「潜在意識によるモンタージュの補法」
→ 端的かつ明快
「夢でも俳諧でも墨絵でも表面に置かれたものは暗示のための象徴であって油絵の写生像とは別物なのである」
→ 俳句における「写生」
「俳句はカッティングの芸術であり、モンタージュの芸術である」
→ フレーミングではない。カッティングである。
「俳諧は切断の芸術であることは生花の芸術と同様である」
→ 生花はより実際的に「物」を「現象」として扱っていると思われる。俳句では、この生花を扱うように「言葉」に対峙すべきである。
以上
おわりに
昭和七年のこの論文があることを銘記し、これ以降を生きなければならない。そしてやはり、漱石さんは立ちはだかっている。