望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

詩は俳句の(人の)形に写り込む―『素十全句集 秋』より「月」の俳句より

はじめに

 英国式庭園殺人事件(グリーナウェイ監督)では、庭園を写生する絵師が写生機械と化して写生に没頭するあまり、自らが殺人事件の目撃者となっていることにその時は気付かぬまま、その克明な記録を残していたという、重要な要素があったと記憶している。

 「相棒7」最終回で、動物を点描画で克明に記すサヴァン症候群の男性が、納屋の中のネズミを見た記憶を描く際、偶然に殺人直後の現場を背景として描いていたというエピソードがあったと記憶している。

 パトレーバーⅡ では、『おもひでのレインボーブリッジ』のカラオケビデオの製作をしていた社員が、ハイビジョンカメラがとらえていた筈のF-16の機影に全く気付かなかったことに、改めて愕然とする(小説版)場面があったと記憶している。

仏教では、目という器官と、そこに映る形象と、その形象を認知する意識とを別々に捉えており、それは解剖学的にも性格だと思われる。目は認識している以上のものを捉えている。

今回は高野素十さんの『素十全句集 秋』収蔵の「月」の句を書き並べ、その場その場の状況報告のように読める句に、詩が映り込むことで俳句に詩情が宿るところを確認しておきたい。

高野素十さんの「月」の句

同書の「月」の句として、大正15年から昭和50年までの81句が時系列で並んでいる。ここには「三日月」や「名月」「雨月」といった季語は含まれない。

 いうまでもなく素十さんは「写生」の俳人であり、それは「ただごと句」「見たまま句」「トリビアリズム」などと批判されることも多い。だがむしろ、そのように作句する、すなわち、世界を捉える「カメラ」となりきること(※ とはいえ人間は透明にはなれず、世界は捉え方によっていかようにも違ってくるものであり、それにともなって私もまた流動的なのだからあくまでも、この「カメラ」は不完全で、有害な「メタファー」として使っている)

 

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によって、意図せざるアングルで詩を捉えてしまう頻度もまた高いのだと思う。

「月」の項の、pp.500-501の昭和16年から27年までの句を記す。

家持にゆかりの温泉薄月夜 16

松島の月塩竃に来て寂し 17

百姓の驚くほどの朝月夜 21

この月を居待寝待と指を折り 21

月よけん今宵は蕎麦をもてなさん 22

稲架の月畦木一本離れ立つ (23)

大いなる片割月の昔めく (23)

月かげを引きて灯影を行く女 (23)

頬冠りせる女房も薄月夜 24

阿寒湖と話す電話は月のこと 24

月の縁船頭二人来て待てる 24

一行に七ハ日なる耶馬の月 25

老友の月の一句のなつかしや 27

湖の月の明るき村に住む 27

 

文字を大きくした句に「詩」が映り込んでいるように思う。世界は物の配材。つまりは「事」からなっている。その「事」がシュルレアリスム的縁起を露呈させる瞬間を、俳句は捉えることができる。それは因果ではないので、いわゆる「意味」を求める態度は無意味である。つまり詩はこのように顕れるのではないか、という試論である。

 続いて、pp.504-505 昭和31年から36年までの句

俳諧の今宵の宿り月の空 31

昔より月に樗の二本の木 32

尼のいふきのふの月はこの空に 32

結界に小さき門や月の寺 32

二すぢの潮の流れ月の海 33

くらがりの波に月光とびとびに 33

水馬四つとなりぬ月のそば 33

月明の手のひらの親指のかげ 33

朝夕といふよき言葉月の曲 33

月明の手のひら萩の一枝のせ 35

月見えし湖見えしとも伝ふ 35

何となく月の空ある庵かな 35

朗詠にほつりほつりと月の雨 35

牧守の預かりしみな月の牛 36

 

見たまま、遭遇した状況のまま(とはいえ無論そこには、フォーカスとアングルの操作が介在する)を記す。だが瞬間とは固定された時間の部分ではなく、時間という概念自体を解体する「事」であって、その瞬間は永遠と等しいことを、非意味的に感受せしめるのである。俳句における瞬間は、だから禅的悟りの感覚と親和性を持つ。だが、そればかりではない。密教的解脱の荘厳さもまた俳句は捉えることができるだろうか。

最後に、pp.508-509 昭和41年から46年までの句

この村を月が照せば我は去る 41

この沼を月が照すは何時頃 41

八日月なり八日月めでたしや 42

古今集新古今集月の池 42

雲と月ありていよいよ明るさよ 44

旅なれや二つぶ三つぶ月の雨 44

この人の一行状記月の墓 44

墓一基ある時は月よかるべし 44

月かげに只急がれよ急がれよ 44

ここも亦奥の細道月の浜 45

月の出を待たずに帰る人々か 46

早くより六日の月はあるべきに 46

月明の一人にして世に処せん 46

月前に置く一通の手紙かな 46

 

高野素十さんは昭和51年10月に亡くなる。素十さんらしい文法は最後まで健在だが、その他に、自らの「想い」「理想」「願望」をそのまま記した句が増えているようにも思われる。

それはさておき、私はやはり即物的な配材に詩の顕れる瞬間を、そうと知らずに写し込んでしまえたらいいと思う。無作為ということになるのだろうが、当然、俳句にしようと考えている間は、作為がはたらいているのである。まさに、呼吸のように俳句定形にする間合。となってくれば俳句は「俳句道」となって、つまらない。

おわりに

俳句という形式そのものを信じればいいのだと思う。すると「俳句教」というわけか。

かつて、三上博史さん演じる中原中也さんが「詩はいじくりまわせば死ぬぞ」と言っていたことを銘記しておきたい。多分私達はこの俗世の中で常に詩を感受しているのであり、それを認識できるか否かによって「幸せ」や「慈悲心」は左右されるのだろう。

いじくりまわす余地の極端にすくない俳句という詩形。それは人の形をしている。

おまけ

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