望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

ブラックリスト8までの感想 ―失敗した贋の終わり(cf.蓮實重彦さん)に始まる可能性

今回のブログはドラマ『ブラックリスト 8』の最終回ネタバレを含みます。ご承知おき下さい。

はじめに

ブラックリストというドラマをCSで見ていて、先日、シーズン8の最終回前と最終回を続けて見終えたところだ。

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 このドラマは当初、ユニークな犯罪者と組織のバリエーションにおいて、通常の犯罪ドラマではなく、さらに重心を犯罪者側に置くおくことで、単なる刑事ドラマでもなく、ある意味で「グリム」というドラマに似た展開だったのだが、やがて、一話完結であることにもの足りなさを覚えるのか、全編を通底する大きな物語に、個々のエピソードを従属させるようになり、評判であれば引き伸ばされ、逆なら打ち切られ、さらに主要人物であっても契約などの諸事情によって唐突な降板を余儀なくされるといった、不安定な状況のなか、紡がれていく脚本の、改悪とも思われる辻褄合わせによって、竜頭蛇尾な駄作として終わってしまうものも多い。(まさに「グリム」がそうであったように)

終末を越えて

 ブラックリストもシーズン8までの間にはいくつもの「終了」を用意していたと思われた。だが、そのいずれもが、姑息な辻褄合わせととられても仕方のないものだったようにも思う。

 だが、このシーズン8の最終回終話直前まで用意されていた、渾身の、辻褄合わせこそが、シリーズ最終回として用意された「正統な物語の終わり」だったように思われる。

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WHY?

 だが、それでもただ一つ、「なぜ、エリザベスは護られなければならないのか」だけは、曖昧なままなのだが。

 例えば彼女が、世界終焉の直接的なトリガーとなっていたのだとすれば、ハリウッド映画における、世界平和=家族愛 という図式に収まるのだが、そういうわけでもないようだ。となると、エリザベスを庇護しようとするコストと、エリザベス自身とがあまりにも釣り合わない、という印象だけは拭えなかった。

 最終話において、エリザベスの力を裏社会の誇示し、レディントンの後継者たるを知らしむることによって、パワーバランスを保つ+FBIの免責=アメリカ国家の保護を得るため、という理由付けも、エリザベスの為、というよりは、ブラックリストを存続させるためと言ったほうが、納得できる。

物語の仕舞い方

 とはいえ、シーズン8の最終回が、レディントンの筋書き通りに達成されたのであれば、とりあえずブラックリストという「愛と喪失のピカレスク・ロマン物語」はきれいに終わったと思うし、「相棒13のダークナイト」といお粗末な辻褄合わせに比べれば、大成功だと思うのだ。

失敗することで成功した、失敗した終り

だが、制作陣はその成功をあえて見送った。

 ラストシーン。どう考えてもエリザベスは死んでいなければならない。

その死は、タウンゼントの望み通りのものだった。タウンゼントはその現場に立ち会うことが出来なかったが、それだからこそ、レディントンは復讐することを予め禁じられてしまっているという点で、タウンゼントが彷徨っていた地獄よりもなお救いのない地獄に投げ出されたのである。

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小説性という破綻

 完璧な物語の完結を食い破る小説性とは、時として営業的判断によって達成される。前衛性とは、時としてもっとも「保守派」な判断によってもたらされる。

 「効率性・マーケティング・費用対効果・スピード」などによってオートメーション化されているシステムから、無理強いや、横紙破りや、ブレークスルーが生じるというのは、日本の80年代ポップスがいきついた過激さ・出鱈目さ(褒めている)を思わせる(というようなことを、坂本龍一さんが『EV cafe』で言っていた)それに比べれば、現在のフォークロックなど、70年代の物語性にとじこもった保守的なものにすぎない。(とこれはまた別のお話)

 ここで、エリザベスが死ぬ、と分かった時、この話の中で、デンベからレディントンの病状がとても回復しているという点が示されていたことを想いだす。

 エリザベス亡きあと、レディントンが庇護すべきは、孫のアグネス意外になく、彼女を庇護し続けるためには、時間と健康が不可欠だからだ。

人は時の涙を見る

 悲劇は繰り返す。それをガンダムシリーズで十分に経験している私達にとって、二回目は喜劇という金言もまた、思い起こされるのである。レディントンは運命、宿命というものに思いを馳せる。シーズン9が、十年後から始まっても、私は何も驚かない。ただ、がっかりするだけである。

レディントンの魅力

 せっかく、物語の物語的結末を反故にしたのだから、ブラックリストという小説はここから始まるの出なければならない。

 ここで再び、「家族ドラマ」に堕してしまうようでは、エリザベスを殺した意味がない。無論、エリザベスの死こそが、彼女を永遠に守るための芝居だったのだという、紋切り型など要らない。それならばシーズン9などなくてもいい。

 ブラックリストの魅力とは、レディントンという人物造形のすばらしさにある。

 自らを犠牲にし、多くの犠牲を払って守り抜いてきたエリザベスを失い、復讐する相手もおらず、そのために形成したブラックリストというシステムだけが、その最も重要な意味を欠いてなお存続し、犯罪者も国家もそのシステムを欲するという状況下にあって、老いゆくレディントンが、深い喪失感を抱えつつ、なおも庇護すべきアグネスに不審と怨みとを抱かれながら、どのように生きてい行くのか。

WHO?

 ブラックリストとは、レディントンは誰か。という物語であった。

 それはガンダムが、シャーの物語であったのと同じだ。

 ガンダムの場合は、第一の目的であるジオンを倒し、第二の目的であったニュータイプの時代を見ることが叶わなかったシャーの挫折の物語であり、その怨念を継ぐ者として造形された傀儡を仕立ててまで続いていくのだが、結局、物語は貧相になっていき、同じ物語を反復するばかりである。

 時代が反復するものだから。というエクスキューズは、あまりに退屈だ。たとえそれが現実であったとしても、想像力まで歴史に縛られることはない。

 ブラックリストは、WHY? もWHO? も奪われ、ようやく、『枯木灘』になりうる前段を整えることに成功した。

シーズン9 に期待している。