望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

可能なる写生 ―季語について

ヤンシユ来る今日はギターを弾かない日

 ヤンシユ。これは季語「渡り漁夫」の傍題だ。
 角川の合本俳句歳時記には

「北海道で、春先鰊の漁期が近づくと、東北地方の農民が、出稼ぎにぞくぞくやって来る。これを渡り漁夫または「ヤンシユ」というのである」

とある。


 彼等はどんな鞄にどんな荷物を詰めてやってくるのだろう。

 宿舎のようなものがあるとすれば、そこには古いギターが壁にかかっていたりするのかもしれない。または、彼等を迎える立場として、さまざざまな支度に追われていて、ギターを爪弾く暇もない忙しさ。または、そのような忙しさを理由にして、ギターを弾かなくてもよいことに、ほっとする人の存在。そんな情景を浮かべた。


 南北に長い日本で「歳時記」は、ひじょうに中央統制的と感じている。桜の便りにしても、北と南とでは二ヶ月ほども時差がある。

 とはいえそもそも「暦」自体が(というか「標準時間」そのものも)中央集権の象徴なのだから、それに依拠する歳時記も当然、そういう性質を帯びることになる。だから、北や南、山の上や海外などで「俳句」を作ろうとする場合、「季語」の選択はひじょうな困難を極めるだろう。

 わたしは写生句を範とする者だ。

 とはいえ、今回の巻頭句は当然、「実景」ではない。

 だが、季語から連想した情景になるだけ入り込んで、季語を旅し、季語に暮らした中で取り出した空想的な写生、つまりは空想画であり、可能なる写生である。わたしは、こういうのも写生句と呼んでよいと思う。

 俳句形式は「五・七・五音」に「季語」と「切れ」」であることに異論はない。

 だが「季語」に関しては、句を通して大勢が感得できればよいのだと考える。

 芭蕉が「全ては切れ字になる」と言っているように、「全ては季語になる」といってもよいと考えている。

 重要なのは「季語」ではなく「季感」であり、さらに突き詰めれば「今」性なのだから。

 俳句とは「今」という瞬間を、永遠としていきいきと切り出す事だと、わたしは考え、そのようは俳句をいつか作りたいと念じている。